1. 生命倫理と生命工学

(バイオエシックスとバイオテクノロジー)

pp. 1-8 in 遺伝子工学の日本における受けとめ方とその国際比較,ダリル・メイサー (Eubios Ethics Institute, 1992).

Copyright 1992, Darryl R. J. Macer.

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 本書は、序文、調査方法と回答者の特徴の章、および遺伝子工学に関する問題や科学技術に対する意識調査の結果を取り上げた6章に分かれ、結論と提案の要約がこれに続きます。参考文献はすべて網羅されてはいませんが、最近の論文と興味ある本は含まれています。本書で議論されるトピックスの詳細に関しては、前著 (Macer 1990) をご参照ください。

 本書の提案は一般市民、科学者、教師、日本政府だけではなく、多くは国際的にも当てはまるものです。遺伝子工学の利用に伴い日本や世界各国が直面する生命倫理、法律、政策の核心をこれらの章を通して簡潔に議論していきます。


1.1. 日本の遺伝子工学とバイオテクノロジー

 世界中で数多くの遺伝子工学研究が行なわれています。遺伝子技術(遺伝子工学およびその他の技術も含む)のいくつかは既に日常生活に応用されています。種々の科学的進歩については様々な意見が述べられていますが、遺伝子工学に関してはことにそうです。遺伝子工学は多くの利益をもたらすとも、また多くのリスクを伴う技術とも考えられ、人々は両方の考えをしばしば持っています。このような社会的関心と、人類の未来に対する遺伝子工学やバイオテクノロジーの明らかな重要性にもかかわらず、遺伝子工学に対する意識調査はほとんど行なわれていません。

 したがって、以下に述べる調査は、日本人の各層の意識を明らかにし、グループ間や海外の意見との比較のために行なわれました。筑波学園都市に働く人々と日本の他の地域の住民との比較も行なわれました。国際比較を可能にするため、質問はもっぱら外国で行われた調査から取りましたが、英語から日本語への翻訳は必ずしも両言語で同じ意味を表現するとは限りません。英語よりも日本語の質問の方が曖昧なケースもあります。より多くの情報を得るために、アンケート回答者にはとりわけいくつかの質問でコメントを書くようお願いしました。こうして得られたコメントは、個々のインタビューの情報に加え、問題を討議する際に非常に役立つ情報を提供してくれます。誘導的な質問は努めて避け、いくつかのケースでは、回答の一貫性を結果の分析の際にチェックできるよう類似した質問を出しました。

 世論は惨事や病気の治療の報道といった特殊な出来事で大きく変化するとはいえ、アンケートから得られたデータは今後何年も利用できます。この調査は今後、日本で行なわれる調査の基礎となり、技術が人々の生活により深く関わるに従い世論がどのように変化するか評価できるようになるでしょう。質問した理由を質問と回答結果の検討に加えてあります。情報の入手方法、遺伝子工学教育、また遺伝子工学から生まれる社会、倫理、環境上の問題等に関する質問は教育政策に今すぐ重要となります。

 職業や社会的地位を異にする人々にみられる意識の相違も重要です。技術の利用に関わる決定は、一般市民とは違った意識を持つ一グループの代表で構成される委員会で下される場合もあるからです。また、こうした決定を下す人々が、将来、一般に門戸を開かないまでも、日本の社会の大半の人々やバイオテクノロジーの今後の発展に大きな影響を与えると思われるいくつかのグループの意見に、目を向けることになるでしょう。いくつかの関係団体の代表や会員とも話し合いましたが、これはその見解を理解するためです。レポートの結果は、この種の調査に対する反応を理解する一助となるでしょう。このレポートが科学者、一般市民、遺伝子工学研究関係団体間での遺伝子工学の応用の導入とその規制についての話し合いを促すようになることを切に望んでいます。

 日本のバイオテクノロジー研究の進展とその背後にある政策決定に関し、最近いくつかの調査が行われました(Brock 1989, Nishimura 1988, Schmid 1991)。 バイオテクノロジーに対する一般意識について議論が余り行なわれていないため、一般意識に関して詳細な情報が不足しています。政府と産業界は1980年代を通しバイオテクノロジーの普及に努め、2000年までにバイオ産業は日本経済の10% (127兆円) (BIDEC 1986) を占めると予想されますが、その90%は食物や飲料の発酵に関するような従来の産業でしょう。 組換えDNAによる製品の日本における1990年の売上は12億4,000万円でした(Schmid 1991)。

 政府と産業界によるバイオテクノロジー普及の一環として、バイオインダストリー協会(JBA)―通産省(MITI) の外郭団体―があります。科学技術庁(STA) はバイオテクノロジーの一般市民による受け入れ促進のために1989年は3,000万円を費やし、1990年にはさらにこの3倍が投じられたと思われます。普通の日本語にバイオという接頭語が付けられて新しい言葉が出来上がり、日常語としては他のどの国よりもこのような言葉が多いかもしれません。それでも日本の遺伝子操作生物の野外実験は1992年初頭までで僅か1件に過ぎず、遺伝子工学の農業への応用は国際的に見て非常に初期の段階にあるといえます。厚生省は遺伝子組換え体によって作られた食物や食品添加物を使用するにあたってのガイドラインを今年3月に作成しました。バイオテクノロジー振興の努力にもかかわらず全体的には、厳しい規制、または規制の欠除が障害となっているようです。

 バイオテクノロジーに関する日本人の一般許容度は高いとされていますが、本研究を始めるまでもなく遺伝子工学に関しては異論を挿まざるをえません。日本のバイオテクノロジーに関する最新の総説の中でSchmid (1991, p.615) は、「日本社会の高い教育と情報レベル、結論に達する特殊な方法――通常はあらゆるグループが関わっての充分な議論――を反映」して、バイオテクノロジーに対する一般の許容度は高いと述べています。バイオテクノロジー普及に関する決定に自分が関わっているか否かを問われて、関わっていると答える一般市民はほとんどいないでしょう。日本の場合、意思決定は一般市民を除外しがちで、バイオテクノロジーも例外ではありません。世論はバイオテクノロジーを強く支持しているという調査結果はどの「世論」調査にも全く見当たりません。これらの調査結果を、新しい結果に照らして考察します。


1.2. 生命倫理

 私達は倫理について考える必要があります。倫理とは意思決定に関することで、世界全体に関わるものから個人に関わるものまで大小様々な問題を扱います。私達は倫理自体、そして私達の生活様式と倫理の関わり合いについても考えなくてはなりませんが、政府の行動も必要です。例えば、地球温暖化、オゾン層の破壊といった地球規模の問題は他の全ての問題に影を投げ掛けるのです。しかし、これらの問題は個々の人々の行動によってしか解決できません。それはエネルギー使用量を減らすことです。明かりを消す、冷暖房の温度を上げ(下げ)る、エネルギー効率の高いビルを建てる、急発進をしない等、これらは全て、私たちの惑星のことを考えれば、誰もがとらなければならない簡単な行動ですが、見たところ余りにも多くのドアは開け放され、不必要な冷暖房や明かりなど、膨大なエネルギーの無駄使いが行なわれています。日本ではエンジンをかけたまま駐車している車をあちこちで見かけます。まるで地球のことを誰も気にかけていないかのようです。

 なぜ倫理が必要か、そして、意思決定を導く上でどの要素が重要かについて私達は話合わなければなりません。全ての道徳的選択は倫理的意思決定を伴っています。こうしたタイプの決定は誰もが行なえますが、そうしない人も多いでしょう。医の倫理は意思決定をより多く伴いますが、個人的レベルでは、患者と医療関係者に関わってきます。上記の例と同じように、個人的行動は自身で決定しなければなりません。例えば医療関係者はその支配的な役割を、また患者は「俎板の鯉」のような服従的な態度を変えることが必要なのです。間接的には、患者の家族や、同じく治療を必要とする他の患者といった人々が影響を受けます。より広範なレベルでは、非常に高額な治療費が他の患者への資金に食い込むといった問題が、間接的に多くの人々に影響を及ぼすでしょう。このレベルでは、公害のように、より高度な政策立案が要求されます。

 民主的な決定が下されるのは、世論の支持が得られ小数意見が踏みにじられることなく、国内外で長期的に見て合理的な場合でしょう。こうして下された決定でも全てが倫理的とはいえず、社会が多数派の非倫理的な決定を取り続けることもあります。今世紀前半に生物学や遺伝学の分野では、非倫理的な優生学の強制が世界を席巻しました。当時40カ国以上が不妊と移民選抜の政策を強要したのです(Kelves 1985)。今日も続く環境破壊も忘れてはならないでしょう。これらが常に無知から出ているとは限りません。むしろ自らの利益を追及し、その権力を保持するために一般市民をある生活様式に従わせることのできる一部の人々によってこうした悪弊は支えられています。大概は私達全てが持つ人間の身勝手な部分にアピールするのです。私達はむしろ全世界の持続、そして全ての人々の権利を考慮すべきなのです。以下に簡潔に述べた倫理原則の内容のバランスを取りつつ、私達はより倫理的な決定に到達すべきでしょう。

自主性

 人はそれぞれ違います。私達の顔、身体、着ている服を見れば簡単にわかることです。私達の行なう選択についても同じことが言えます。テニスをするかも知れないし、ゴルフまたはチェス、あるいは読書、それともテレビを見るかもしれません。これらはすべて個人的な選択です。特定の活動や振る舞いを強制されることもあるかも知れませんが、最終的には自分の選択です。民主主義の社会では、選択の自由の容認は私達の義務であり、権利なのです。個人の自主性の尊重は生命倫理の根本原理です(Veatch 1981)。

権利

 権利にもいくつかのタイプがあります(Annas 1989)。すでに法的に認知された権利もあれば、まだのものもあります。人権は、人間としての尊厳を保つ上で必要不可欠のものですが、法的認知を得ていません。

 権利は私たちに尊厳と保護をもたらします。あるものに対して権利を有していれば、戸惑うことや恐れることなくその権利を主張できますが、日本を含む多くの国では、権威に挑むと危険な場合もあるようです。新しい技術や増え続ける知識という課題もさることながら、人々を、それぞれの価値観を持つ同等の人間として尊重することが何よりも重要な課題です。個人の権利の尊重は、権威主義、父権主義からパートナーシップへの転換に象徴されるように、権力を持つものと持たざるものとの関係を変えます。

 人権意識の高まりは様々な国の形態を変え、世界の多くの国々は国連人権宣言(Sieghart 1985) もしくはその国に合わせて変えられた宣言に調印しています。この宣言は様々な状況に適用できます。例えば、私達は自国に関する決定に携わる権利、宗教、表現の自由、家庭を営み、科学の発展の恩恵を分かち合う自由、より良い未来への権利などを有しています。医学のように、現代技術の利用がますます高まり、患者を人間として治療することから遠ざける時代にあっては、権利の尊重は特に重要です。人権は、病院や臨床環境を人間中心の考え方にするため、権利としてではなくても認知することが望ましいのです。患者は入院しても人権を放棄するわけではありません。権利は、私達が住むあらゆる場所で重要なのです。

 日本では、国民の権利は憲法に基本的人権として記されています(1947)。生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大限の尊重を必要とします(第13条)。第14条では異なる人種、信条、性別、社会的身分または門地によらず人々は法の下に平等であり、政治的、経済的または社会的関係において差別されないと述べられています。第19条には、思想と良心の自由は侵してはならないとあります。第20条では、信教の自由、第21条では集会と表現の自由、第23条では学問の自由が保証されています。しかし、憲法に記されていることが常に実際に行なわれているとは限りません。確かに、法律が全ての決定を容易にするとはいえないでしょう。

 倫理は法律とは違います。倫理は、より高度なものを追求しており、法律が求める以上のことを行ないます。法律は人々を守り最低限の振舞いを定めることができますが、訴訟によって高い道徳的振舞いを定めることはできません。医療過誤の極端な状態はどうでしょう。日本では、患者の主張が尊重されることも、正しく評価されることもなく、一方米国では、裁判所が患者に対する莫大な金額の支払を認めています。医療に携わる人々は弁護士を恐れ、司法扶助の保険料はうなぎのぼりです。誰もこのような形の医師と患者の関係を望んではいません。唯一の長期的解決方法は、患者の自主性を尊重する良い医師の存在です。患者が人間として自らの価値観を維持しつつ信頼できる医師の存在なのです。金銭では弁償できない環境破壊についても見てみましょう。モラルのある企業、政治家が増え、意思決定の基本的規準を金銭から倫理へと変えることが解決策といえるのではないでしょうか。

善行

 社会の哲学的観念の根底をなすものの一つは、進歩の追求です。医療と健康の改善の追求は、その最も正当化された形です。害にならないよりは、ためになることをしようと努めるほうが優っているとはよく言われることで、人々の最大の利益のために努力しないのは、害になる=怠慢の罪ととられます。これが善行の原則です。善行の原則は、健康や農業改善の研究の強い推進力なのです。

 善行は単なる哀れみの行為以上のものを表しているので、哀れみの行為には慈善の方が近いかもしれません。善行の原則は、他人の重要で正当な利益の追求を援助する義務を主張しています。これは、もしあなたが泳げて、溺れている人を見たら、飛び込んで助けなければならないということなのです。また、害にならないように、リスクを秤にかけることも含まれます。第3、4章で人々がどのように技術の利益とリスクを秤にかけるか見てみましょう。

害さないこと

 善行が目的でも、害をなしたものを社会の法は通常罰しようとします。これら善行と害の両方のバランスを取る必要があるでしょう。このバランス取りは、利益とリスクの両方が存在する科学技術の分野に大きく関わってきます。リスクにも様々なタイプがあります。例えば原子力は、チェルノブイリ以上の大事故をおこす可能性がわずかとはいえあるため、時として非常に危険性の高い発電方法とされます。現在のところ産業規模の代替発電方法は石炭等の化石燃料の燃焼です。原子力発電所よりも炭坑で亡くなる人の方がはるかに多いのですが、火力発電は人間への直接のリスクが比較的小規模なため、事故の頻度が高くても危険と考えられないのかもしれません。この20年で私達は化石燃料使用の間接的なリスクに気づきはじめました。地球温暖化の結末は炭坑やガス油井労働者が受ける直接的な被害よりもはるかに深刻です。私達は、政府の政策がそうあるべきように、様々な技術とその代替方法のリスクと利益のバランスを考えながら、日常生活においても行動していかなければなりません。

 医学では害を防ぐという原則に非常に長い歴史があります。ヒポクラテスの誓い(紀元前400年頃)には二度にわたって、また他の伝統的な医の倫理にも、医師の義務として患者のためになることを行なう、患者が害を受けないようにすること等が述べられています。実際には、ヒポクラテスの誓いとされる"primum non nocere"(ラテン語、少なくとも害さないこと) という格言は、ヒポクラテス全集には見当たらず、出所はわかっていません。宣誓の根本原理は何通りかにわたって体系的に述べられ、その中に「しかし私は彼ら(患者)を傷つけたり不当に扱ったりすることには決してそれを使わない」というものがあります。これは、医学が道徳的な行為であり、その知識は治療のためのみに使われるべきだという考えです。医学知識は非常に強大なものですが、悪意の目的ではなく、助けるために使われるべきなのです。この考えは確かにヒポクラテスの誓いの中にあり、かねてよりその一部でした。その考えの二つ目の形がヒポクラテス著の"Epidemics" にある「害さないこと」で、病気を治療する際には十分注意することを指示しています。三つ目の形として二世紀の著名な医師ガレノスはこの格言を「医師は何よりも病めるものを助けることを目標としなければならない。不可能ならば、彼らを害してはならない」と言い換えています。これは助けるという行為を強調し、ラテン語の格言とは異なっています。リスクと利益のバランスをとる一方で、私達は少なくとも患者のためになることをしようと努めるべきでしょう。ラテン語の格言"primum non nocere"が四つ目の形で、もっと用心深いものです。けがそのものよりも症状が余計悪くなるような、古代の医学に相応しいものですが、今日でも役にたつ格言です。患者が害を被る場合、何らかの保証があってしかるべきなのです。

 「害さないこと」は非常に幅広い言葉ですが、正義、守秘と博愛の原則の基です。これはまた、人間の生命と統一性の尊重でもあります。人の命を尊重するから害さないのです。この特色はヒポクラテスの伝統やその他の医の倫理の伝統、そして倫理全般に見られます。害をなさないことというのは個人レベルでより多く表れていますが、正義はこの概念の社会的レベルでの表現です。この思想は、無害の原則と呼ばれます。そしてこの思想は技術応用一般にも当てはめることができます。

公正

 個人の自主性は社会の利益よりも大切だと主張する人々は、社会を守るのは、社会が個人生活の尊重に関わっているからだということを思い出してください。個人の自由は社会のそして全世界の人々の自主性を尊重することによって制限されます。他者の福祉の助成と価値観、選択の尊重が等しく行なわれること、これは個人の自主性の追求を制限します。私達は次世代の利益も考慮する必要があり、そのことが現在の世代の自主性を制限するのです。そしてこの原則は全世界に当てはまるべきものであって、いかなる国も他の国の人々を傷つけるような政策をとってはならないのです。

 個人生活に高い価値を置くことで生まれる重要な原則は、個人の自主性の尊重です。これは、人はその生活に関する重要な問題を決定する自由を持つべきだということであり、人権意識の基礎となるものです。これは数多くの宗教にも見ることができます。自主性の一部は、他者を傷つけない範囲内での行動の自由ということであり、個人の自由もしくはプライバシーと呼ばれます。善意は、人に害を与えない、そして人々の最良の利益のために働くという原則でもあります。

守秘

 守秘を重んじることは非常に重要です。個人情報は秘密とされるべきです。犯罪行為が関与していたり、他者が直接危険にさらされる場合は例外ですが、例外の基準を設定するのは非常に難しく、いずれにしても稀です。個人情報の報告には配慮がなされ、広がらないようにしなければなりません。そのような情報を含んだコンピューターのデータバンクの利用には注意を払い、もしその情報の秘密が守られないのなら、データバンクに入れるべきではありません。

 新しい遺伝学の倫理的利用の特色は、遺伝情報のプライバシーを守ることです。これは現存する医学的伝統に残された特色の一つで、その保持は人々の自主性の尊重のためだけではありません。人々の信頼を保つためにも必要なのです。信頼を裏切れば、私たちは信用されません。これは人生全ての面に当てはまります。私達は公正を柱としない不完全な世界の差別から個人を守らなければなりません。

 プライバシー、つまり質問を拒否する権利は守秘の延長線上にあります。医療保険会社が申込者を事前により分け、低リスクの顧客のみを扱うのなら、そのような質問を拒否する権利があるべきです。正しく、公正な医療を行う唯一の方法は、保険会社に対してそのような質問を拒否するか、あるいは、もっと良い解決法として、国による医療システムで全てに無料そして平等な診療を確保することです。

動物の権利

 以上の原則は人間同志の相互関係に当てはまります。しかし私達は動物、さらには環境とも影響し合っています。日本では欧米諸国と違って研究に動物を使用することはそれほど論争の的になっていません。遺伝子工学、人間の疾病のモデル、タンパク質等の有用な物質の医療目的の製造、そしてもっと伝統的には農業において動物は利用されています。これらの利用法のうち、人間の疾病の研究のために突然変異系統の動物を作ることなどは人間の利益になりますが、こうした突然変異系統の動物の中には苦痛を感じるものもある(Macer 1990) ため、ずっと倫理的に難しいでしょう。

 動物の道徳上の位置、そして人間が動物を使用することが倫理的かどうかという判断は、考える能力、家族を認識する能力、痛みを感じる能力(違ったレベルで)生存状態などの重要な特質に左右されます。もし私達が人間は動物から進化したと信ずるなら、人類が持つと信じている特質――人類に道徳的価値を授けているもの――を与えられた動物もいるかもしれないと考えるべきです(Rachels 1990)。ハッキリと線を引くことはできませんが、霊長類、鯨、イルカの中には人間と似たような脳の特徴、家族行動、家族を失った時悲しみの感情を持つものもあり、こうした特徴を示さない動物に比べ高度な道徳的状態を有しているといえないでしょうか。これらの動物よりも「下等な」動物――他の哺乳類や哺乳類よりも下等な動物など――を使っても同様な結果に到達できるのなら、実験や食料生産(一番大きな利用目的)に適した進化的に一番低いレベルの動物を使うべきでしょう。また誰もが理解しているように苦痛を与えるのは悪いこと(Singer 1976) ですから、もし動物を利用するのなら苦痛を与えないようにしなければなりません。この考えをさらに進めれば、実験や食品の安全性のテストには動物そのものよりも動物の細胞もしくは植物、微生物を利用すべきとの結論に達します。この考えは第4章の一般の意見にも反映されています。

環境倫理

 人間は環境とも相互に影響しあっており、事実その生命を環境衛生に頼っています。環境保護の議論は人類が環境に頼っている点にアピールするのが早道でしょう。自然界から人間の利益になる様々なもの――各種の動植物、食料、衣料、住居、燃料から薬に至るまで――を引き出すこともできます。様々な利用法はまた、生物の多様性の保全(バイオダイバーシティ)をはかることにもなります。ご存じのように生態系は微妙なバランスの上に成り立っており、このバランスを崩すような新しい生物をひとつの環境へ導入することによる危険性は、遺伝子工学が生んだもう一つの重要な問題でしょう。しかし私たちは1万年にわたり農業で選択を行なっており、改良された有益な動植物の導入と選択は決して目新しいことではないのです! この点は第4章で考察します。

 上記の議論で環境の価値を人々に納得させなくてはなりません。しかもそれは第1

段階なのです。とはいえ人間の功利性に基づいた私たちの価値観に訴えかけるものでもあります。自然環境の保護という価値あるモデルに関してさらに議論を進めるべきでしょう。そのモデルとは自然そのものに価値があり、人類の生存に絶対不可欠でないかぎり(人間の贅沢な生活のためではなく)、他の種にダメージを与えてはならないということです。自然には命があるからこそ価値があるのです。世界を見るもう一つのパラダイムは、神が創造した世界には価値があり、私たちはこの惑星の所有者ではなく管理を任されている者だという宗教的観点です。人間の利益というパラダイムだけで世界を見ないこの観点は人々の生活をより良くすることができるでしょう。


1.3. 意思決定

 上記の原則を日常生活に応用しようとすると、相反する様々な倫理原則のバランスをとる必要性が誰の目にもすぐに明らかになります。異なる人々の利益は対立するでしょうから、プライパシーや守秘の維持にも例外は必要でしょう。一個人の自主性の保護と、公正の原則、つまり全ての人々の自主性を守ることのバランスをどう取れば良いのでしょうか。この点で、功利主義――最大幸福と利益の追及――の存在する余地は常にありますが、様々な人々の利益と嗜好に等しく価値を与えることは非常に難しいことです。

 多くの医療や科学的作業は、利益とリスクの両方に関わりかつこれからも関わり続ける技術を内包しているので、重要な問題をはらんでいます。人間は利益とリスクのバランスをとり倫理的決定を下すことを要求されますが、そうすべきなのです。利益が大きい反面、リスクの可能性も高いのです。私たちの生活は楽になり無数の決断をしなくても済むようになったかも知れませんが、それでも、決断しなくてはなりません。より多くの可能性があればあるほど、決断も多いのです。幸いなことに教育水準は上がっていますが、正しい決断が行われるという保障はありません。私たちは意思決定をもっと学ぶべきであり、教育システムは現代生活のこのような必要性に対応しなくてはなりません。

 バイオテクノロジーと遺伝子工学についての人々の意見を見てみましょう。どちらの技術も利益をもたらしますが、同時にリスクもあります。誰が最も恩恵を受けるのかも明確ではありません。世界は益々狭くなり相互に依存しあっていることから、利益とリスクを国際的に見ることが大切です。バイオテクノロジーは世界中の人々の生活に影響を与えるでしょう。この技術が正しく使われれば、全世界の人々が医薬品や環境的持続可能な農業を通して恩恵を受けることができます。しかし工業国の生産物自給を可能にするバイオテクノロジーによる発明は、国際貿易のバランスおよび開発途上国と工業国の繁栄を変えることになります。代替生産物のため開発途上国が製品を輸出できなくなると、政情不安や戦争という結果を招きます。結局はこれが最も大きなリスクになるでしょう。私たちは国内外の問題を忘れてはなりません。人類が多くの利益を享受し続け、環境の恩恵を望んでも、新しい技術の代価は今まで以上に私達に決断を迫るかも知れません。そして今その時期に来ているといえるでしょう。


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