生命倫理とは命を愛すること:教科書に替えて

ダリル・メイサー(Darryl Macer)

(訳:前川 史)

<A HREF="BLL.html">Bioethics is Love of Life: An Alternative Textbook</A>

ユウバイオス倫理研究会、1998(英語版);2002(日本語版)

 ここに記載しましたのは、英語版の第1・3・4章を翻訳したものです。本文は3月末日にユウバイオス倫理研究会のホームページに掲載されます。<eubios.info/bllj.htm>翻訳文に対する御意見・御感想がございましたら、是非次のメールアドレスまでおよせください。<asianbioethics@yahoo.co.nz>

 

1. 生命の共通基盤としての愛

1.1.生命への愛

 私達がこの世に生まれてくる時に受け取る贈り物は愛です。それは殆どの人に与えられる贈り物であり、それを与えられないということ自体が私達の肉体が体現している人間性に対する無礼となります。愛はあらゆる生命体にとって、新しい生命に良き始まりを迎えさせるための規範なのです。母性愛は様々な形で示されますが、共同体(コミュニティー)が新生児を宝として扱うことは、全ての人間社会にとっての社会的規範でもあります。

 私達が他の人達と分かち合うことが出来る最上の贈り物も愛です。愛を表現する方法はたくさんありますが、好意の原点となっているのは愛なのです。だから愛は私達の中に存在する神の反映であると言うことが出来るのです。愛とは遺伝子によって私達に与えられた生物学上の遺産であり、共同体内の融和を破壊する利己性に勝つために生じた能力です。社会が個人と共同体の調和を追求する時、社会的な遺産もまた私達に愛を与えてくれます。こういった愛は、本書の献辞で述べたように、与えようと努める時に、互譲によって築かれるのです。

 本書の題名は、いつも題名を思いつく時と同じように、夜中にうとうとしながら夢の中で考え付いたものです。生命とは私達を時にはぐったりさせるもののようで、私達は休息を取り、そして新しい一日が始まります。しかしながら、子宮で始まり棺の蓋に釘が打たれて終わるこの生命という周期は、新しい日が喜ばしいものであるようにとの希望で、今でも私達を興奮させ続けているべきです。それが生命への愛であり、全ての人がそれを感じることが出来る権利を持っているのです。時には、私達は何かをすることにかかり切りだったり、何もしなかったり、意気消沈しているかも知れません。生命という周期全体を通じて、忍耐と歓喜の鍵となるのは生命にとって根本的なものなのです。

 この生命の鍵となるものが生命への愛であると言うことは新しいことではなく、第2章の引用文の範囲から明らかであるように、あまりにも多くの物故者や現存者が理解し共有してきたことなので分かり切ったことになってしまっています。明らかに当り前過ぎるので、多くの人々が他の答を探すのでしょうが、大抵はより複雑だけれどあまり満足出来なかったり、普遍的ではありません。生命への愛とは、最後のエネルギー単位(ATP)を食物に近づくために使うバクテリアにも、溺れる子供を救うために川へ飛び込む犬にも、自分とは関係のない地震の被災者を助けるために泥を掘り起こす人の愛にも見られるものなのです。

 本書は、「生命への愛」が最も単純で最も包括的な生命倫理の定義であり、世界中の全ての民族に普遍的なものであると主張します。本書で中心として扱う新しい社会は国際社会であり、世界的共同体であり、また戦争と平和の繰り返しから生まれつつある未来への遺産です。そういった社会は個人と共同体と地域がお互いを尊重しつつ構築していくものであるべきなのです。孤立や対話の違ったイメージを想像することは可能ですし、そういったものは異なった時代に様々な社会や人々の間に見られます。この世界的共同体を作り上げる中で過ちを冒す度に、私達はそれを償おうとします。完璧な統一体を目標とする個人としてです。

 「愛」という言葉を私が今使っているように使用出来るかどうかは、読了後に判断して頂けるでしょうが、皆の意見が一致するということはないでしょう。本書は『人民による人民のための生命倫理』(Bioethics for the People by the People, Macer, 1994)の学究的精神で著されています。つまり、生きている有機体としての私達が持つ生命倫理を描写し、どのような生命倫理を持つべきか指示出来るよう『人民による人民のための生命倫理』を拡張するということです。図や写真は邪魔になるのか役に立つのか分かりませんが、言葉だけでこのように広範囲に渡る概念を共有することは誰にとっても不可能なので使用しました。

 本書は生命倫理という学問の紹介のための新たな教科書として書かれましたが、私だけではなく読者の経験とも一致するものであるよう願っています。生命倫理の必要性は、国連宣言や、科学者や教師の発言や、一般の人々の考えの中で、そしてエスキモーとタミル人のようなかけ離れていると思われる様々な社会における倫理の腐敗への返答として、国際的に再び強調されています。私はこの10年、生命倫理を教えてきましたが、現存する教科書には幾つか問題点があります。まず、アメリカもしくは西洋中心に書かれてますが、それは普遍的と称する理論的な書物としてふさわしくありません。第2に、生命倫理は常識であるべきものなのに、それについての学術的な議論は大抵非常に複雑なので、理論や理想は学者だけのものになってしまいます。生命倫理の理論の殆どが一般市民の意思決定を中心と考えると称しているだけに、これは興味深い現象です。第3に、市販されている教科書は倫理的行動の陰にある動機を受け入れず、感情を退け理性的な原則で充分だと主張しています。本書がそういったものではないと読者が判断してくださることを希望します。私達は実践的で普遍的な生命倫理の話に再び集中出来るようになるかも知れません。

 また、教室で教えられている生命倫理はしばしば明らかな偽善を無視します。これは生命倫理の学説は原則に従うべきだとしているのに、学説を推進する人々が感情で意思決定を行うからです。私達の行動や理論には常に偽善が含まれているのかも知れませんが、実際には原則以外の要因が選択を決定するのに、学問の専門家が倫理的ジレンマは個別のケースに当てはめる原則間のバランスを取ることで解決出来ると学生に教えるのは無責任です。

1.2. 生命倫理

 生命倫理は言葉であると同時に概念でもあります。言葉としては1970年以降のみ使われていますが、概念は何千年も前からある人類の遺産に由来します(Macer, 1994)。それは愛の概念であり、選択と決定の利益と危険のバランスを取るものなのです。この遺産は世界中の全ての文化や宗教や古代からの書物に見られるものです。実際、生命倫理の起源が何処にあるのか明らかにすることは出来ません。というのも社会内や共同体内、そして自然と神との人間の関係は歴史で辿れることが出来ない初期の段階で作られたものだからです。

 まず、「生命倫理」が何を意味するのか考える必要があります。生命倫理を考察するのに私は少なくとも3つの方法があると考えます。

1. 記述的生命倫理は、生命、生涯、他の生命体との倫理的相互関係や責任を人々が考察する方法です。

2. 規範的生命倫理は、何が倫理的に良かったり悪かったりするのか、どのような原則がそういった決断をくだす際に最も重要なのかを他の人々に告げることです。それはまた何かや誰かが権利を持ち、他の人はその人達に対して義務を負うと言うことでもあります。

3. 相互作用的生命倫理は、人々や社会の中のグループや共同体が上記の1と2について話し合い議論することです。

 規範的生命倫理を発展させ明らかにすることで、受け入れ可能なより良い選択が出来るようになり、私達の生活や社会を改善していきます。現代のようにバイオテクノロジーや遺伝学の発達した時代になされるべき選択は数多く、受胎前から死亡後まで人生全般にわたります。生殖や避妊や結婚の選択のタイミングは新しいものではありません。安楽死もまた古くからある選択肢であり、私達が死ぬべき運命を持つことの結果です。規範的生命倫理を満たすためには今まで人々が従ってきた生命倫理と、現在の生命倫理を描写する必要がありますが、これはBioethics for the People by the People の主となるテーマでした。そこでは、人々が直面するジレンマを解決するための方法として倫理的に正しい唯一の方法など存在しないことが示唆されています。

 生命倫理の定義は多々ありますが、最も単純なものは生命("bio")に関わる疑問から生じた倫理的問題を考慮することでしょう。これまで述べてきた全ての医療倫理の問題や、「どんなものを食べるべきか?」とか「この食べ物はどのように作られたのか?」、「何処に住んで、どの程度自然を脅かしてもいいのか?」、「人間を含めて他の生き物とどのような関係を持つべきなのか?」、「自分の生活の質と、自分や他人の生命や共同体への愛のバランスをどう取ればいいのか?」といった日々直面する問題も含まれますし、他にもたくさんの問題があるでしょう。生命倫理の理論の歴史は、私達の遺伝子、それに人々や社会や文化の中で遺伝子を形作り続けている力の影響を受けています。今では人間の遺伝子だけではなく、全ての有機体の遺伝子を変化させる力や地球上の生態系全体を改造する力を私達は持っています。その結果、多くの人がバイオテクノロジーの応用に注目することになりましたが、重要な問題はもっと基本的なものなのです。新しい技術はそれでも私達が生命倫理について考慮する際の触媒であり、この何十年かの生命倫理研究を刺激し続けてきました。

 生命倫理の共通基盤として使われるか、あるいは少なくとも重要であるとされてきた原則や理想が幾つか存在します。この点については第3章で述べることにしますが、他人の選択や正義を尊重しながら選択をする個人の自律も含まれています。私達が行なうこと全てにおいて、危害を加えることを避け、善行を為そうと努力することが理想であり、それは『愛』という言葉で括れるものだと私は考えます。これらの理想からは、例えば『人権』や『動物の権利』や『責務』や『調和』といった言葉も派生してくるかも知れませんが、結局はこれらは全て『愛』に由来するものです。記述的倫理学とメタ倫理学の言説を論評する他に、本書は規範的倫理学の理論を提唱します。すなわち、倫理的に受け入れられるに値する行動の指導と評価のための規範となるものです。しかしながら、私達全てが下す決断からかけ離れたものではないので、実用的なものになるはずです。

 本書では『私達』という言葉を使いますが、私と親しい人々には分かると思いますが、これは所謂「自称としての『私達』」(Royal We)とは違うものです。この惑星の上で私達と共に暮らしているのは、心を持っている者や持っていない者や、動ける者や動けない者や、苦痛を感じる者や感じない者を含んだ多くの生物で、何億もの異なった種が存在しています。他の星に存在するかも知れない生物や、新しく作り出される種や遺伝子クローンや炭素シリコンのアンドロイドも含まれます。

 倫理学の直面している問題は、どのように『倫理的な行為者』を定義するかということです。それは必ずしも私達が予想しているような姿をしているとは限りません。むしろ基準を見直して、含まれる者と除外される者について討議しなければならないでしょう。物理的または遺伝的に造り直し、好きなように世界を操作できるような種だけではありません。現状そのままにしておくことに満足を感じ、環境の形を変えることに喜びを見出さない種かも知れません。そういった過ちは倫理学の議論の中で何度も繰り返されてきましたが、庭師なら知っているように、植物の種は予測がつかない方法で土を変えていくものなのです。水や土の中に住む微生物は、生命にとって重要な栄養分の形を造り変えていますが、それらの殆どは裸眼では見ることが出来ません。それでも植物の種や微生物の働きは自らの生命や他の生命への愛であると言えるのでしょうか?『愛』という言葉が使えるものなのでしょうか?どのように『愛』を定義出来るのでしょう?

1.3. 愛の概略

 普遍的生命倫理に関する本の題材について5年間作業を続ける中、母の葬儀で挨拶をした数週間後に私は本書を書き始めました。母の「生命への愛」が生命倫理とは生命への愛であるという考えに私を導き、このことについて1994年以降私が書いた論文のほぼ全てで触れたことについて考えました。しかし私が愛について書くことの個人的な発端は、20年前に愛についての音楽を作り始めた時です。私は世界各国の講堂で生命倫理は生命への愛だと発言してきましたが、時にはそれは非学術的だと非難されることもありました。しかしながら、愛とは他のどんな事柄よりも書かれ、歌われ、夢想され、争いの原因となってきたものなのです。

 音楽や日の出の光の中に愛を感じることはあるでしょうが、大抵の場合、愛は過去や現在、もしくはずっと続いている行動に基づくものです。行為の伴わない愛は不毛に思えるかも知れませんが、それでも愛は出来事の前にも後にも存在しています。次章『愛とは何?』は、過去に人々が提案した『愛』の定義について考察しますが、ほんの一部分しか引用されていません。文献を調べているうちに、ユーコン川流域でのゴールドラッシュについてジャック・ロンドンが書いた短編『生命への愛』(1897)という本を1冊だけ見つけましたが、『生命への愛』という表現はもっとずっとありふれたものです。愛は人間社会においてずっと普遍的である、という第2章の結論に反論する人はおそらくいないでしょうが、愛の表現が生命倫理であるのかという点には納得しない人もいることでしょう。

 私達の心の大半を愛が占めているということでは意見が一致するかも知れませんが、どのように感情を、決定を分析するシステムへと拡大すればよいのでしょうか?第3章は、『愛』について触れているものもそうでないものも含め、倫理学の理論について論評します。この章はおそらく本書の中で最も従来の意味で学術的で、生命倫理の完全なる理論に欠けている要素は愛であるという結論に達しています。知識不足で除外せざるを得なかった理論にはお詫びを申し上げますが、生命倫理の中心となる要素は生命への愛であるという提案を判断するためにより多くの理論が使えるように望みます。

 第2章は通俗的な文化が共有してきた愛についての思想の幅広さについて示唆していますが、次に愛の限界について考慮しなければなりません。誰への愛であるのかというのが問題の1つです;自分自身への愛、他者への愛、自然への愛、それとも生命全てへの愛でしょうか?第4章は『自らの生命への愛』と題され、自律と利己と利他主義について論じています。利己的な本性から私達は逃れられるのでしょうか?どの程度自分の欲望を制限すべきなのでしょうか?自分自身を愛することを、『自律』と呼ぶ人もいれば、『利己』と呼ぶ人もいることでしょうが、区別をすることは可能でしょうか?自分の生命をも愛し、自らの能力や才能や欲望を追求し、より多くの可能性を実現出来た時に、初めて私達は完璧な倫理的存在になれるのかも知れません。

 愛が倫理学の共通基盤であることの最強の証明は私達の心や良心の中にあるのかも知れません。でも、どうしたら私の心の中にあるものと同じものが隣人の心の中にもあると確かめられるのでしょうか?自らの同一性や独自性を守ったり、独立したものとしての存在を正当化しようとする際、社会は自らが独特であると主張しようとしてきました。他の文化は違うと言うのです。第5章『愛、文化、そして関連性』は、隣の席に座っていたり、近所に住んでいたり、海の反対側にいる人達と私達がどのくらい似ているのかについて判断する際に証拠となるものについて論評します。この章では、様々な国や状況について、ここ何年間か私が取り組んできたフィールドワークから、調査や写真やビデオやメモの一部を用いて考察します。文化それぞれが保護されるべきではありますが、他の文化は異なるものだと主張するのは不正確です。大抵の場合、そういった主張は、異なる国々や同じ社会内の異なる場所で暮らすという特権を得た人々の持つ、2つの文化内の2つの異なるレベルでの不充分な知識や経験に基づいているのです。

 第6章『愛と動物には境界がない』は種の境界を超えた『愛』の定義について考察します。愛は人間の心を夢中にさせますが、愛が突然人類に現われたと考えるのはあまりにも無知というものです。他の種を助けるということは、利己的な遺伝子の庇護を超えるような全てを与える愛の存在の最もはっきりとした証拠であると、私は主張します。短期であろうと長期であろうと自らの種の利益を追求すべきか、他の種を愛するべきか、というジレンマの中で種がお互いに直面するのはよくあることです。そのような概念は、他の種の生き物のペットと暮らす多くの人にとって新しいものではないのですが、個人の友として以上の意味があるのでしょうか?

 個人として、共同体として、種として、知覚する存在として、私達がどうであるのかを描写するだけでは十分ではありません。地球全体に関係する深刻な問題があるのです。アジアの上空を飛行する時、6つから10ほど、燃え上がる丘が見えることがあります。そういった丘は、以前生えていた木々の大部分を奪われてしまっています。農地を開発することは、愛の実践なのでしょうか?第7章は環境倫理学について、そして私達がどのように海や大地を愛せるのか、考察します。これまでの36年間、私は南極以外の全ての大陸に行きました。生物学の大学院生として、米国の最南部地方で過ごした夏は、もう2度と経験することがないものでしょう。私は分子生物学で遺伝子を研究することとなり、遺伝的なシステムによって『生命』を理解し、そのようなシステムが環境によってどのように作られたのかを理解することが可能だと考えていました。私の最初の著書の題名『遺伝子の創造』(Shaping Genes)はそういった考えを反映していますが、同時に良い生命(eu-bios)の広範囲にわたる一般的な概念が必要であることも強調してあります。

 最終章『将来に向けての愛』は、何故私達は自分の家族や社会や地球が生き残ることを望むのかについて考察しています。将来に備えて計画するという考えは、生命が最も古くから持っている特徴で、若い世代が生き残ることにより生命の周期が続いていくということなのかも知れません。それはまた他の種にも見られますが、計画する能力が『倫理上の要求』となるのは何時なのでしょうか?それは他種間倫理学の基礎となり、私達の生存の基礎となります。それと自己愛の間の均衡は、自らと共同体の自律、そして全ての者のための正義との伝統的な闘いを表わしています。

 本書では、意思決定のための実践的な枠組みの試みがはっきりと示されています。自己愛(自律)、他者への愛(正義)、生命を愛すること(害を与えないこと)、そして善を愛すること(善行)といった原則の間のバランスを取ることで、生命を愛するという欲求に基づいた私達の価値観を表わすことが出来るようになるのです。しかし、結局のところ、私達の直面するジレンマには白黒つけられるような答などないことが多いという、生命に関する単純な事実がはっきりとするだけです。そのような答は未だかつて存在したことがありませんし、殆どの場合にはこれからも現われないでしょう。社会というまとまりとして私達は普遍的である多様性を理解しなければなりませんし、愛をもって出来る限りのことを許容する必要があります。他者を保護する時がやってくるかも知れませんが、非難してはならない、という愛の精神を忘れずにいられるはずです。本書そのものを判断して頂きたい、そして何かを得て頂ければと思います。けれども、決して愛の力を見くびったりしないでください。

第3章 生命倫理の理論と愛

過去何十年かの間に,私たちが直面してきた倫理的ジレンマに,私たちがより良く対処し、より良い選択を行うための理論がいくつも述べられてきています。そこでこの章ではまず,これまでの人々があまり取り上げてこなかった「愛」を含めなかった場合の生命倫理について考えたのち、次の節では、「愛」も含めた場合の生命倫理に関する諸説を、整理してみたいと思います。そして最後に、近代の生命倫理学者たちはなぜ、「愛」を重視しなかったのかについても、考えてみることにします。

3.1. 生命倫理の理論

第一章でも取り上げたように,生命倫理は生に関わる倫理の学問を意味しますが,それは一部分を取り上げているに過ぎません。医療倫理への関心は,大方の生命倫理委員会が医療倫理しか扱わない事を示唆しています。同じように,生態学や環境学にまつわる生命倫理は人と人とのふれあいを含むべきでしょう。世界において,これほど優性な生態学的関係は例を見ないからです。どちらの極論も不完全な見解ですし,一般的な理論は適切に対応させればどちらの領域においても有益なものとなりうるでしょう。

生命倫理が唯一の教義となる事はありえませんし,また生命倫理はキャンペーンでもありません。どちらかと言うと,教義上の信念体型というよりも,ソクラテスの古典的方式に沿った議論の反映なのです。書物や抗議のキャンペーンにおいてある観点を推進するために生命倫理という言葉を使う人がいますが,生命倫理がなんであるかについては大変広い範囲での解釈ができます。それは命を尊重すると同時に,科学と技術に関わる選択をする事でもあります。

生命倫理にはいくつかの理論があり,区別をするときの一番簡単な方法は,行動・結果・動機のうちどれに最も重きを置いているかを見る方法です。他の区別方としてはデオントロジカル理論が上げられます。これは権利と義務の概念や目的論について考察するもので、影響や結果に基づいています。人生という道を歩いているとすると、目的論者はある選択がどこへ続いているかを見ますが、デオントロジストは計画された道筋を歩みます。

 このような区別は倫理上のジレンマを扱い易い問題に分けるために必要なのですが、それでもしばしば倫理的な問題が生じます。例えば、癌で死にかけている人に、痛みを和らげるためにマリファナを与えるならば、非合法の薬を投与するという行為と、その薬を使っている間は痛みが和らぐという結果、もしくは助けてあげたいという動機という3つの要素に重点を置くことが出来ます。しかしながら、これら3つの要素のどれについても違った見地から検討することも可能です。例えば、完全に理解されていない薬(理解されているものがあるとすれば、ですが!)を投与するという行為、同室の人々は匂いが気に触るという結果、または個人の選択を尊重するという動機、ということです。以下で取り上げる理論は、生命理論に取り組むために必要な倫理上の平衡全体の異なった部分に重点を置いています。

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、道徳とは「最終の善」や「至高の善」の追求であると書いています。それを受け入れることも出来るでしょうが、問題はその善とは何であるか?ということです。「最終の善」はしばしば幸福のことであると考えられましたが、それは主要な目的論的理論の1つである功利主義へとつながります。功利主義は行為の結果に着目するもので、ジェレミー・ベンサム(1748_1832)とジョン・スチュアート・ミル(1806_1873)の著作に基づいています。紀元前6世紀に中国で墨子が説いたことを再発見したのだとも言えるかも知れません。功利性の原理は、苦痛を超える幸福/快楽、害以上に善、または否定的価値を上回る肯定的価値の優位を常に作り出すべきであると主張します。初めは幸福の価値に重点が置かれていましたが、最近では友情、知識、健康、美、自律、成就と成功、理解、享楽や奥深い人間関係といった他の本質的な特性も含まれるようになりました(Beauchamp and Childress, 1994)。功利主義は冷淡で打算的に映るかも知れませんが、多くの人々(第2章2節を参照)はそれを親密な愛の表現であると考えています。

 功利主義は本質的に筋が通っていて、単純かつ包括的であり、ジレンマを解決することが出来ます。また、生まれくる人間の幸福を主張することも出来るので、人の生殖作用の問題に応用することも可能です(Rachels, 1998)。けれども、純粋なる結果主義者は恐らく存在しないでしょう。結果にほとんど差がなければ、大抵の人は約束を破ることは悪いと考えて、その言質に則って決断することでしょう。全ての社会で何らかの所有権が認められていて、大半の社会ではたとえそれが多くの人を助けることになるにしても、金持ちから盗んで貧乏人に与えることを認めていません。しかし、多くの社会は累進税を受け入れていて、高所得者は累進的に課税されています。結果は同じでも、大部分の人々は悪い動機よりも良い動機を評価します。また、結果主義は人権侵害につながり、過度に自律を制限するのかも知れません。

 行為に重きを置く倫理学の理論は倫理律を考慮します。それらの規則には様々なタイプがあります。手段についての規則は結果の達成に貢献すると考えられている行動を規定します。例えば、(病気にならないように)食べる前に野菜をよく洗うようにするということです。でも、レストランとなると、当局に指示された手段についての規則に従わなければなりません。トイレはキッチンの中にあってはならない、といったようなことです。問題なのはどの規則に従うかということで、それは誰の得にもならない規則もあるからです。

 規定功利主義者は倫理律を命令的な手段についての規則として用いるので、倫理的に正しい行動は規則体系の遵奉であり、規則の正当性の判断基準は可能な限り多くの一般的な幸福の創造です(Cox, 1968)。例えば、医学研究で利用される倫理律の1つは、患者を対象とする実験が正当と見なされるのは患者自身が恩恵を受ける時で、たとえそれが全人類であったとしても第三者のみに利益が齎される場合ではない、というものです。規定功利主義者はそれを規則だと主張できますし、それは功利主義の範疇に留まることになるでしょう。行為功利主義者は特定の行為のみに目を向け、倫理律は単に大ざっぱな目安にすぎず、最大の善に結びつかないのなら破っても構わないと主張します。時には規則に従うことの方が規則を持たないことより良いということについては、大抵のプラグマティストは反論しないでしょう。スマート (1961)が述べたように、選択的服従は倫理律や道徳の全般的尊重を損なうものではありません。功利主義者にとって唯一の絶対的な原理は功利性なのです(Beauchamp and Childress)。しかしながら、功利を強要すると、倫理上の義務である行為と余分な行為(倫理上の義務以外に個人的な理想のために行われる行為)の区別が難しくなってしまいます。

 倫理上の義務は社会が個人に押し付けることが出来るものですが、もしその人が専門家であろうとするなら余計そうなります。例えばヘルスケア従事者であれば常に患者の最善のために働くということですが、善行の原理には実践のための綱領や医師会の行為規約や規則といった形で何らかの実践上の手引きが必要です。礼儀としての規則は多くありますが、それは一般的に道徳律とみなされることはなく、むしろその場にふさわしい行為規約に従っているだけです。スポーツの試合では、勝つためや楽しむためではなく、偶然出来た規則がありますが、規則は規則として従うだけです。医者は患者に真実を告げるべきであるとか、患者に直接麻薬を販売してはならないと言われているかも知れませんが、そういった規則は普遍的に絶対的な倫理上の義務とみなされている訳ではありません。

 もう1つ功利主義にとって問題となるのは、功利性を最大化するために多数派の利益が少数派のそれより重要視されることです。その点では、民主主義や、国の政策や法律を決定する国民投票と矛盾しません。たとえ何人かの人や幾つかの生き物が不幸になるとしても、大部分の人々をほとんどいつも幸せにすることがより重要となります。しかしながら、人を幸せにすることが愛の主要な目的の1つなのです。

 アリストテレスやトマス・アクィナス(1225_1274)は、追求する目的とそれを達成する手段の双方を行為者である人間の本質と関連させて考慮しました。自然律は、行為者である人間にふさわしい目的と手段は善いものであり、そうでないものは悪いものであると定めています(McInerny, 1987)。両者とも人間の行為の究極の目標について考えましたが、それは理性的に行動すべきであるということでした。トマス・アクィナスは、全ての人が知っている行為者としての人間の本質に含まれている人間の行動についての一般的な綱領が存在すると、考えました。善とは私達が本来望むものであり、最高の水準にあるものだというのです。殺人や窃盗や姦淫や偽りが禁じられているのは低いレベルにありますが、アキナスはそういったことは人間にとっての善を破壊するのであるから、如何なる場所であれ常に誤っているのだと主張しました。肯定的な法律は支持していましたが、動機も重要だと考えたのです。善い行動は人格の産物であり、人格は私達の心が善い行動へと傾くまである種の行為を繰り返すことによって形作られることになります。

 もう一つの理論は義務を基本とし、イマヌエル・カント(1724_1804)の著作から生まれたものです。カントは『実践理性批判』の中で、道徳は伝統や直感や良心や感情や同情のような気持ちではなく、純粋理性に根差すものであると主張しています。これはフランシス・ベーコンの流れを汲むもので、ベーコンは『愛について』の中で「愛すると同時に思慮深くは出来ない」と述べています。カントにとって、人間は欲望を我慢出来る理性的な力と自由、そして合理的な判断によって行動する能力を持った生き物なのです。カントは、人間は義務に従って行動しなければならないと説き、定言的命令を定めましたが、その1つは「自らの処世訓が普遍的な法になるような方法以外では決して行動してはならない」というものです。一般にカントは相容れない義務を解決できませんでした。例えば、2つの絶対的契約が矛盾する場合です。

 もう1つよく知られている定言的命令は「全ての人を手段のみとしてではなく目的として扱うように行動しなければならない」(Kant, 1959参照)というものですが、これも愛について触れているものです。「徳の教義」でカントは、敬意(Achtung)を他者を単なる自己の目的達成のための手段として卑しめることを拒否することであると限定し、愛とは他者の目的を自己のものとすることとしています。しかし、例えば仕事上、誰かが他人のために何かをすることに同意したとするなら、その人が敬意をもって扱われることは道徳上容認されます。カントは善行を愛よりも合理的なものと考え、『倫理純正哲学』(Foundations of the Metaphysics of Morals)の中で「...性向としての愛を強要することは出来ない。しかし義務としての善行は、どのような性向にも左右されず、たとえそれが当然の克服出来ない嫌悪の情に阻まれたとしても、実践的な愛であり、病的な愛ではない。感情の性質ではなく意思に属するものであり、脆弱な同情ではなく行動の原理に帰するものである。それのみで強要可能である。」と述べています。

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1961)は公民権のための非暴力闘争について「この運動の第一の原理は、手段は目的と同様に純粋でなければならない。この運動は目的と手段は首尾一貫しなければならないという哲学に基づくものである」と述べました。目的によってどのような手段でも正当化されるという観念体系に従えば、自分達の運動は壊されてしまうと主張したのです。それが、誰も傷つけず、抗議者は抵抗しないという方針の理由ですが、同じ原理がインドのガンジーによっても効果的に用いられました。

 規則に基づく方法はトマス主義の自然法倫理学の伝統に属し、実践的な倫理上の判断とは特定の状況に一般的な倫理上の規範を当てはめることだと主張しています。思慮分別は、目的達成のための手段の選択を指示する実践上の知恵であり、特定の場合に規則や原理を応用することが必要です。適切な規則や原理が使われなければなりません。それを思慮分別と呼び、それ自体知的な美徳であり、善い道徳的性質や、少なくとも倫理上の判断に基づくものです。

 義務や任務の敷衍とは、倫理上の焦点を破棄し、倫理上の権利を持つ者がいるとすることです。私に言論の自由があるのなら、社会は私に発言させる義務を持ちます。権利は倫理の濫用から人々を保護し、特に西洋諸国の倫理学では広く一般に使われています。これは市民権や政治や文化に関する権利として普遍的な協定として採択されていますが、アジアでは権利という表現について意義のある国も存在します。政治上の民主主義が完全ではない国では特にそうです。これは権利が個人の自由という概念に密接につながっていて、近代では自由主義的個人主義としてトーマス・ホッブス等の思想家に由来しています。そのような考えでもまだ個人と共同体との間の軋轢が解決されずに残ってしまいます(Dworkin, 1977)。

 権利は法定の規則として表現されることがよくあります。信教の自由のように、絶対であると判断される権利もあります。個人の信仰の自由は、ユダヤ教-キリスト教-イスラム教は勿論、仏教や儒教やヒンドゥー教の 伝統でも支持されています。その他の権利はどんな場合でも絶対であるわけではありません。他の命が危険に晒されている場合にはたとえ生きる権利であっても絶対とは言えず、死刑制度のある国では犯罪に対する刑罰として生きる権利が冒されます。ジレンマやその結果に関係する倫理主体の様々な権利は、適応されている明白な原理とともに、平衡を保たせる必要があります。

 医療倫理には肯定的権利と否定的権利が用いられます。ヘルスケアを受ける権利は肯定的権利で公正さを要求する権利に基づいています。勧められた手術を受けずに済ませることは、自律の尊重の原理に基づいた否定的権利の1つです。アメリカ合衆国最高裁判所は1973年のロー対ウェイドの訴訟で、女性のプライバシーの権利のために、母体の生命に危険がない場合でも、胎児の生育力より中絶する権利が優先すると判定しましたが、これは社会による干渉を制限する否定的権利を意味します。しかしながら、そのことで肯定的権利が与えられる訳ではないので、政府が中絶の補助をしなければならないことにはならないのです(Beauchamp and Childress, 1994)。そうだとしても、政府が中絶を金銭的に援助すべきかどうか、倫理上正しいことは何か、といったことについては答を出さなければなりません。アメリカ合衆国での中絶に関する論争を外部から見ていると、権利という言い回しが、選ぶ権利や生きる権利といった異なった権利を支持する様々な団体の間に激しい軋轢を生み出しているように思えます。生きる権利はある特定の人にあって、別の人にはないと主張することや、犯罪に対する刑罰という概念がどうして生きる権利の消失を正当化する理由として使われるのかといったことは、批判されるでしょう。しかし、50年前の1948年の「普遍的人権宣言」以来、世界中で権利は少数派や子供や女性の生活の質を高めてきたのです。

 ラッセル(1954)は倫理に関する認識が実際に存在するか否かという問題について考察しました。倫理の中に希望や欲望は存在していて、それらは主観的なものではありますが、倫理上の真実は存在するかも知れません。人間は殺されるべきではないということに誰もが同意するでしょうが、それでは法律という概念はどうして生まれてきたのでしょうか。ラッセルは「法は『公正』である時善いものだとみなされるが、『正義』は正確に定義することが難しい概念である... 実際のところ、『正義』は『大部分の人が公正だと考えること』と定義されるべきだと考える」と述べました。ラッセルにとって社会道徳とは「政治と殆ど区別出来ない妥協」でした。

 共同体の概念に基づいた理論もあり、個性や自律や個人の権利といったものは社会内の共同体の組織にふさわしくないと提唱しています。共産社会主義者は、社会にとって公共の福祉と共通の目的へのコミットメントが必要であると主張しています。それによって、社会に属する人達は、利己的な自由の追求と同じものである個人主義の濫用から保護されるというのです。問題となるのは、どのような共同体なのかということで、それは個々の家族なのか、村落なのか、州か、国か、地域か、それとも地球全体なのかということです。家族についても幅広い定義がありますが、ハヴィランド(1997)は、婚姻もしくは血縁で繋がった最低1名の成人男子を含む、女性1名と扶養される子供達の集団、と定めています。しかし2名の成人を含まない家族もありますし、2人は同性かも知れません。

 共産社会主義の支持者にはアリストテレス、デイヴィッド・ヒューム、W・H・ヘーゲル、そしてアラステア・マッキンタイア等がいて、両極端の考えを持つ人々が含まれています。マッキンタイア(1984)は、アリストテレスは規範となる決定については、地域社会の慣例とそれに基づく美徳が倫理学の理論より優先されると考えていた、と主張しています。ここでの慣例は、子育て、教育、統制、治療等を含みます。つまり、ヨーロッパ流の臓器寄贈に関する同意の推定を支持するもので、臓器のドナーは明確に同意を与えなければならないという、個人自由主義者的意見とは異なります。倫理学は個人と共同体の双方を考慮しなければならないというのです。

 ここまで、倫理学の理論では行動や結果や決断の動機に着目できることについて説明してきました。本質的に善であったり悪であったりする種類の行動が存在するのか、ということについて問うことも出来ます。このように行動の倫理上の性質について着目することは可能でしょうか?行動によって害を為すことは倫理上の悪であると言えますが、時には結果を知って初めてそのことに気付くこともあるでしょう。でも、殺すことはどんな状況でも道徳上間違っていますし、同様に約束を破ることは本質的に悪いことです。行動には、それを倫理上正しいものに出来る本質的な部分が存在します。もう1つ別の見方は、行動を徳の表われとして、外部から考慮するものです。

 倫理学上の根本的な議論の1つは、普遍的か相対的か、というものです。相対主義には、文化相対主義と倫理相対主義の2種類があります。文化相対主義は、色々な個人や集団に支持されている倫理上の判断は、時には根本的な点で違っていたり、衝突したりするという考え方です。倫理相対主義は、文化相対主義は正しく、矛盾する倫理上の判断は同じように正しいと考えます。倫理相対主義は1つの文化内や2個人間にも当てはまります。

 ビーチャムとチルドレス(1994)は『生医学倫理の原理』の中で、最も広く受け入れられている生医学倫理の理論を概説していますが、それは主に教科書で取り上げられているものと同じです。彼等は、善行・非悪行・自律・正義の4原理による方法を正当と論じています。ここまで私が取り上げた原理と同じですが、「原理と原理の内容の両方は公衆道徳全体をまとまりのある形にしようという我々の試みに基づくものである」(p.37)と述べています。特定の前提、原理や定言的命令に限定する代りに、多元論的です。規則や権利や徳も扱っていますが、原理が最も抽象的かつ包括的な規範となると主張しています。原理は公衆道徳から派生したもので、理性や自然法とは異なりますが、それでも哲学の中に奥深い正当化の根拠があります。ジャン-ジャック・ルソーらの流れを汲み、全ての人間が生まれつき道徳観を持っていて、それが哲学者の込み入った体系よりも重要であると主張するものなのです。

 ウィリアム・フランケナ(1973)は、倫理の主となる原理は善行と正義の2つであるというヒュームの公準を敷衍しています。善行とは、悪に対して善を最大化するということで、正義が善と悪の分布を指示すると説明しています。ビーチャムとチルドレス(1994)は、自分達の理論が最も影響を受けたのは、著書の中で自己改善、正義、善行、非悪行といった義務を列挙したW・D・ロス(1930)だと言っています。これらの原理は自明的に拘束力があり、絶対的でも階層的でもなく、どんぶり勘定でもありません。それは規範的な目安となるものですが、バランスを取らなければなりません。ギロン(1986)の言うように、そういった原理は特定の倫理上の問題を解決する訳ではありませんが、より厳密なやり方で解決しようとする試みに、幅広く受け入れられる基礎を与えるものなのです。

 個人の自律は社会に属す他の個人の自律を尊重することによって制限されます。福祉は推進されるべきですし、価値観や選択は尊重されるべきですが、それらも同様に個人の自律の追求を制限します。社会の成員全てに平等で公平な機会を与えるべきで、それが正義というものです(Rawls, 1971)。社会はその未来の姿も包含すべきですが、それは後世の人々もまた社会の欠かせない一部分だからです。個人の自律は社会の利害より優ると主張している人々は、尊重されるべき多くの生命が関わるのだから社会を保護するのだということを、忘れずにいなければなりません。個人の自由は社会に属する他の人々の自律を尊重することで制限されます。福祉は推進されるべきですし、価値観や選択は尊重されるべきですが、同様に個人の自律の追求を制限するものです。

このような原理は全て愛から派生するのだと私は考えます。これらの原理を保持することは有意義であるかも知れませんが、それが生命への愛から生まれた表現であることを私は力説したいのです。『生医学倫理の原理(Principles of Biomedical Ethics)』( Beauchamp and Childress, 1994)の最終文はそういった必要性を認めています。「偉大な倫理学理論の殆ど全てが、人間の道徳的生活の最も重要な要素は正しく善いことを行なう内的な動機と力を生み出す発達した人格である」(p.502)。ここから生命倫理理論の中で愛が占める位置へと目を移していくのは適当だと思われます。

 

第3章 生命倫理の理論と愛

過去何十年かの間に,私たちが直面してきた倫理的ジレンマに,私たちがより良く対処し、より良い選択を行うための理論がいくつも述べられてきています。そこでこの章ではまず,これまでの人々があまり取り上げてこなかった「愛」を含めなかった場合の生命倫理について考えたのち、次の節では、「愛」も含めた場合の生命倫理に関する諸説を、整理してみたいと思います。そして最後に、近代の生命倫理学者たちはなぜ、「愛」を重視しなかったのかについても、考えてみることにします。

 

3.1. 生命倫理の理論

第一章でも取り上げましたように,生命倫理は「生」に関わる倫理(学)を意味しますが、それは一部分を取り上げているに過ぎません。医療倫理に関心のある人々は、生命倫理委員会においても、医療倫理しか取り扱わないのが普通です。同じように、生態学や環境学にまつわる生命倫理は、人と人とのふれあいも含むべきものなのです。この世界においては、人と人との関係ほど強い生態学的な分野は他にないからです。しかしどちらの場合も、それがあまり極端になれば、不完全な見解になりますが、一般的な理論を適切に対応させれば、どちらの領域においても有益なものとなることでしょう。

生命倫理が唯一の教義となる事はあり得ませんし,また生命倫理はキャンペーンでもありません。どちらかと言うと,教義上の信念の体系というよりは、ソクラテスの古典的方式に沿った議論の反映に近いものなのです。書物や抗議のキャンペーンにおいて、ある観点を推進するために、生命倫理という言葉を使う人がいますが,生命倫理がなんであるかについては大変広い範囲での解釈ができます。それは命を尊重すると同時に,科学と技術に関わる選択をする事でもあります。またそれは、倫理一般とも、あまり違ってはいません。その違いは、生命倫理の方が、生物に関する諸問題に幾分多くの焦点を宛てているということぐらいのものです。

生命倫理にはいくつかの理論があり、それを区別するときの一番簡単な方法は,行動・結果・動機のうちのどれに最も重きを置いているかを見る方法です。もう一つの区別方法としては、義務論と目的論が挙げられます。義務論は、権利と義務の概念や目的論について考察するものですが、目的論は、影響や結果に基づいています。いま人生という道を歩いてゆく場合を例にとるならば、目的論者は、ある選択に従って歩いてゆけばどこに行けるだろうかと考えますが、義務論者は、ただただ計画された道を歩いてゆこうとします。

このような区別は、倫理的なジレンマを扱い易いように分類するのに必要なのですが、それでもしばしば道徳的な問題が生じます。例えば、癌で死にかけている人に、痛みを和らげるためのマリファナを与えるならば、非合法の薬を投与するという行為と、その薬を使っている間は痛みが和らぐという結果、更には助けてあげたいという動機の、3つの要素に重点を置く事が出来ます。しかしながら、これら3つの要素のどれについても違った見地から検討することも可能です。例えば、完全に理解されていない薬(理解されているものがあるとすれば、ですが!)を投与するという行為、同室の人々は匂いが気に触るという結果、更には個人の選択を尊重するという動機、などがそれです。以下で取り上げる諸理論は、生命理論に取り組むために必要な、倫理的枠組全体のうちのどれかに、焦点を当てているのです。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、道徳とは「最終の善」や「至高の善」の追求である、と書いています。この意見を受け入れる事はもちろん可能ですが、問題は、その善とは何であるか?ということです。「最終の善」はしばしば、幸福のことであると考えられましたが、それは主要な目的論的理論の一つである功利主義へとつながります。功利主義は、行為の結果に着目するもので、ジェレミー・ベンサム(1748-1832)とジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の著作に基づいています。紀元前6世紀に中国で墨子が説いた説の再発見だとも言えるかもしれません。功利性の原理は、苦痛を超える幸福/快楽、害以上に善、または否定的価値を上回る肯定的価値の優位を、常に作り出すべきであると主張します。初めは幸福の価値に重点が置かれていましたが、最近では友情、知識、健康、美、自律、成就と成功、理解、享楽や奥深い人間関係といった他の本質的な特性も含まれるようになりました(ビーチャム&チルドレス、 1994)。功利主義は冷淡で打算的に映るかもしれませんが、多くの人々(第2章2節を参照)はそれを、親密な愛の表現であると考えています。

功利主義は基本的に筋が通っていて、単純かつ包括的であり、多くのジレンマを解決する事が出来ます。また、生まれてくる人間の幸福を主張することも出きるので、人の生殖作用の問題に応用することも可能です(レイチェルズRachels、 1998)。けれども、純粋な結果主義者はおそらく存在しないでしょう。結果にほとんど差が無ければ、大抵の人は約束を破るのは悪いと考えて、その言質に則って決断することでしょう。全ての社会では何らかの所有権が認められていて、大半の社会では、例えそれが多くの人を助けることになるとしても、金持ちからお金を盗んで貧しい人に与えることを認めてはいません。しかし、多くの社会が累進課税を受け入れています。高額所得者は累進的に課税されています。結果は同じことでも、大部分の人が悪い動機よりは良い動機を評価します。また、結果主義は人権侵害につながり、過度に自律を制限するのかもしれません。

行為に重きを置く道徳上の理論は、道徳律を考慮します。それらの規則には、様々なタイプがあります。手段についての規則は、結果の達成に貢献すると考えられている行動を規定します。例えば、(病気にならないように)食べる前には野菜を良く洗うようにする、ということです。これがレストランとなると、当局に指示された手段についての規則に従わなければなりません。トイレはキッチンの中にあってはならない、といったことなどです。問題なのはどの規則に従うかということで、それは、誰の得にもならない規則もあるからです。

規定功利主義者は、道徳律を命令的な手段についての規則として用いるので、道徳的に正しい行動は規則体系の遵奉であり、規則の正当性の判断基準は、可能な限り多くの一般的な幸福の創造です(コックスCox、 1968)。例えば、医学研究で利用される道徳律の一つは、患者を対象とする実験が正当とみなされるのは、患者自身が恩恵を受けるときで、例えそれが全人類であったとしても、第三者のみに利益が齎される場合ではない、というものです。規定功利主義者はそれを規則だと主張できますし、それは功利主義の範疇に留まることになるでしょう。行為功利主義者は特定の行為のみに目を向け、道徳律は単に大雑把な目安に過ぎず、最大の善に結びつかないのなら破ってもかまわないと主張します。時には規則に従う事の方が規則を持たないことよりも良い、ということについては、大抵の実利主義者は反論しないでしょう。スマート(1961)が述べたように、選択的服従は道徳律や道徳の全般的尊重を損なうものではありません。功利主義者にとって唯一の絶対的な原理は、功利性なのです(ビーチャム&チルドレス)。しかしながら、功利を強要すると、道徳上の義務である行為と、余分な行為(道徳上の義務以外に個人的な理想のために行われる行為)との区別が難しくなってしまいます。

道徳上の義務は社会が個人に押しつけることが出来るものですが、もしその人が専門家であろうとするならば、余計そうなります。例えばヘルスケア従事者であれば、常に患者の最善のために働くということですが、善行の原理には実践のための綱領や医師会の行為規約や規則といった形で、何らかの実践上の手引きが必要です。礼儀としての規則は多くありますが、それは一般的に倫理律とみなされることはなく、むしろその場にふさわしい行為規約に従っているだけのことです。スポーツの試合には、勝つためや楽しむためにではなく、偶然出来た規則もありますが、規則は規則として従うだけです。医者は患者に真実を告げるべきであるとか、患者に直接麻薬を販売してはならないといわれているかもしれませんが、そういった規則は普遍的に、絶対的な道徳上の義務とみなされているわけではありません。

もう一つ功利主義にとって問題となるのは、功利性を最大化するために、多数派の利益が少数派のそれより重要視されることです。その点では、民主主義や、国の政策や法律を決定する国民投票も同じことです。たとえ何人かの人やいくつかの生き物が不幸になるとしても、大部分の人を常に幸せにしようとすることが、なにより重要視されます。しかしながら、人を幸せにすることが、愛の主要な目的の一つなのです。

アリストテレスやトマス・アクィナス(1225-1274)は、なにかを追求する目的と、それを達成する手段の双方を、行為者である人間の本質と関連させて考慮しました。自然律は、行為者である人間にふさわしい目的と手段は善いものであり、そうでないものは悪いものである、と定めています(マッキナーニMcInerny、 1987)。両者とも、人間の行為の、究極の目標について考えましたが、それは理性的に行動すべきであるということでした。トマス・アクィナスは、全ての人が知っている、行為者としての人間の本質に含まれている、人間の行動についての一般的な綱領が存在するものと考えました。善とは私たちが本来望むものであり、最高の水準にあたるものだというのです。殺人や窃盗、姦淫や偽りが禁じられているのは低いレベルにありますが、アクィナスは、そういったことは人間にとっての善を破壊するのであるから、いかなる場合であれ常に間違っているのだと主張しました。肯定的な法律は支持していましたが、動機も重要だと考えたのです。善い行動は人格の産物であり、人格は私たちの心が善い行動へと傾くまで、ある種の行為を繰り返すことによって形作られることになります。

もう一つの理論は、義務を基本とするもので、イマヌエル・カント(1724-1804)の著作から生まれたものです。カントは『実践理性批判』の中で、道徳は伝統や直感、良心や感情、同情のような気持ちではなくて、純粋な理性に根ざすものであると主張しました。これはフランシス・ベーコンの流れを汲むもので、ベーコンは『愛について』の中で、「愛すると同時に思慮深くは出来ない」と述べています。カントにとって、人間は欲望を我慢できる理性的な力と自由、そして合理的な判断によって行動する能力を併せ持った生き物なのです。カントは、人間は義務に従って行動しなければならないと説き、定言的命令を定めましたが、その一つは、「自らの処世訓が普遍的な法になるような方法以外では、決して行動してはならない」というものです。一般にカントは相容れない義務を解決できませんでした。例えば、二つの絶対的契約が矛盾する場合です。

もう一つよく知られている定言的命令は、「全ての人を手段のみとしてではなく、目的として扱うように行動しなければならない」(カント、 1959参照)というものですが、これも愛について触れているのものです。『徳の教義』の中でカントは、敬意(Achtung)とは、他者を単なる自己の目的達成のための手段として卑しめることを拒否することであると限定し、愛とは、他者の目的を自己のものとすることであるとしています。しかし、例えば仕事上、誰かが他人のために何かをすることに同意したとするならば、その人が敬意を持って扱われることは道徳上容認されます。カントは善行を愛よりも合理的なものと考え、『道徳の形而上学の基盤 Foundations of the Metaphysics of Morals』の中で、「…傾向としての愛を強要する事は出来ない。しかし義務としての善行は、どのような傾向にも左右されず、たとえそれが克服できない程の嫌悪の情に阻まれていたとしても、実践的な愛であり、病的な愛ではない。感情の性質ではなくて意思に属するものであり、脆弱な同情ではなくて行動の原理に帰するものである。それのみで強要可能である」などと述べています。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1961)は、公民権のための非暴力闘争について、「この運動の第一の原理は、手段は目的と同様に純粋でなければならない。この運動は、目的と手段は首尾一貫しなければならない、という哲学に基づくものである」と述べました。目的によってどのような手段でも正当化される、という観念体系に従えば、自分たちの運動は壊されてしまうと主張したのです。それが、誰も傷つけず、抗議者は抵抗もしないという方針の理由ですが、同じ原理は、インドのガンジーによっても効果的に用いられました。

規則に基づく方法は、トマス主義の自然法倫理学の伝統に属し、実践的な倫理上の判断とは、特定の状況に一般的な倫理上の規範を当てはめることだと主張しています。思慮分別は、目的達成のための手段の選択を指示する実践上の知恵であり、特定の場合に、規則や原理を応用することが必要です。適切な規則や原理が使われなければなりません。それを思慮分別と呼び、それ自体知的な美徳であり、善い道徳性質や、少なくとも倫理上の判断に基づくものなのです。

義務や任務を拡大してゆくと、倫理上の焦点を破棄し、誰かが倫理上の権利を持つということになります。私に言論の自由があるのなら、社会は私に発言させる義務を負います。権利は倫理の濫用から人々を保護し、特に西洋諸国の倫理学では権利という言葉が広く一般的に使われています。これは市民権や政治や文化に関する権利として、また不変的な協定として採択されていますが、アジアには権利という表現について反対している国もあります。政治上の民主主義が完全ではない国が特にそうです。これは権利が個人の自由という概念に密接につながっていて、近代では自由主義的個人主義として、トーマス・ホッブス等の思想家の考え方に由来しています。そのような考えでは、人と共同体との間の軋轢は、解決されずに残ってしまいます(ドーキンDworkin、 1977)。

権利という言葉は、法定の規則として表現される事が良くあります。信教の自由のように、絶対であると判断される権利もあります。個人の信仰の自由は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はもちろんのこと、仏教や儒教やヒンズー教の伝統でも支持されています。その他の権利はどんな場合でも絶対であるわけではありません。他の命が危険に曝されている場合には、たとえ生きる権利であっても絶対とは言えず、死刑制度のある国では、犯罪に対する刑罰として生きる権利が冒されます。ジレンマやその結果に関係する倫理主体の様々な権利は、適応されている明白な原理と共に、平衡を保たせる必要があります。

医療倫理には、肯定的権利と否定的権利が用いられます。ヘルスケアを受ける権利は肯定的権利で、公正さを要求する権利に基づいています。勧められた手術を受けずに済ませることは、自律を尊重するという原理に基づいた否定的権利の一つです。アメリカ合衆国最高裁判所は、1973年のロー対ウェイド(Roe versus Wade)の訴訟で、女性のプライバシーの権利のために、母体の生命に危険が無い場合でも、胎児がまだ子宮外で生育できない時期であれば、母親の中絶する権利のほうが優先すると判定しましたが、これは社会による干渉を制限する、否定的権利を意味します。しかしながら、その事で肯定的権利が与えられるわけではないので、政府が中絶の補助を約束したことにはならないのです(ビーチャム&チルドレス、1994)。そうだとしても、政府が中絶を金銭的に援助すべきかどうか、倫理上正しいことは何か、といった問題については答えを出さなければなりません。アメリカ合衆国での中絶に関する論争を外部から見ていると、権利という言いまわしが、選ぶ権利や生きる権利といった、異なった権利を支持する様々な団体の間に、激しい軋轢を生み出しているように思えます。生きる権利はある特定の人にあって、別の人には無いと主張することや、犯罪に対する刑罰という概念が、生きる権利の消失を正当化する理由として使われるかの是非については、批判の声が上がるでしょう。しかし、50年前の1948年に「普遍的人権宣言」が現れて以来、世界中で権利は少数派や子供や女性のQOLを高めてきたことは否めません。

ラッセル(1954)は、倫理に関する認識が実際に存在するか否かという問題についても考察しました。倫理の中に希望や欲望は存在していて、それらは主観的なものではありますが、倫理上の真実は存在するかもしれません。人間は殺されるべきではない、ということには誰もが同意するでしょうが、それでは法律という概念はどのようにして生まれてきたのでしょうか。ラッセルは「法は『公正』である時善いものだとみなされるが、『正義』は正確に定義する事が難しい概念である…実際のところ、『正義』は『大部分の人が公正だと考える事』と定義されるべきだと思う」と述べました。ラッセルにとって社会道徳とは、「政治とほとんど区別できない妥協の世界」でした。

共同体の概念に基づいた理論もあり、個性や自律、個人の権利といったものは、社会内の共同体の組織にふさわしくないと提唱しています。共産社会主義者は、社会にとっては公共の福祉と共通の目的へのコミットメントが必要である、と主張しています。それによって、社会に属する人たちは、利己的な自由の追求と同じものである個人主義の濫用から保護されるというのです。問題となるのは、どのような共同体なのかということで、それは個々の家族なのか、村落なのか、州か、国か、地域か、それとも地球全体なのかということです。家族についても幅広い定義がありますが、ハヴィランド(1997)は、婚姻、もしくは血縁でつながった最低1名の成人男子を含む、女性1名と扶養される子供たちの集団、と定めています。しかし2名の成人を含まない家族も有りますし、二人は同性かもしれません。

共産社会主義の支持者にはアリストテレス、デイヴィッド・ヒューム、W・H・ヘーゲル、そしてアラステア・マッキンタイア等がいて、両極端の考えを持つ人々が含まれています。マッキンタイア(1984)は、アリストテレスが規範となる決定について、地域社会の慣例と、それに基づく美徳が倫理学の理論より優先されると考えていた、と主張しています。ここでの慣例は、子育て、教育、統制、治療などを含みます。つまり、ヨーロッパ流の臓器寄贈に関する同意の推定を支持するもので、臓器のドナーは明確に同意を与えなければならないという、個人自由主義者的意見とは異なります倫理学は個人と共同体の双方を考慮しなければならないというのです。

ここまで、倫理学の理論では行動や結果、決断の動機に着目できることについて説明してきました。本質的に善であったり悪であったりする種類の行動が存在するのか、ということについて問うことも出来ます。このように、行動の倫理上の性質について着目する事は可能でしょうか?行動によって害を為すことは、倫理上の悪であると言えますが、時には結果を知って初めてそのことに気付く場合もあるでしょう。でも、殺人はどんな状況であっても道徳上間違っていますし、同様に、約束を破ることは本質的に悪なのです。行動には、それを倫理上正しいものに出来る本質的な部分が存在します。もう一つの見方は、行動を徳の表れとして、外部から考慮するものです。

倫理学上の根本的な議論の一つは、普遍的か相対的か、というものです。相対主義には、文化相対主義と倫理相対主義の2種類があります。文化相対主義は、様々な個人や集団に支持されている倫理上の判断は、時には根本的な点で違っていたり、衝突したりするという考え方です。倫理相対主義は、文化相対主義が正しく、矛盾する倫理上の判断は同じように正しいと考えます。倫理相対主義は、一つの文化内や、2個人間にも当てはまります。

ビーチャムとチルドレス(1994)はその著『生医学倫理の原点 Principles of Biomedical Ethics』の中で、最も広く受け入れられている生医学倫理の理論を概説していますが、それは主に教科書で取り上げられているものと同じです。彼らは、善行・非悪行・自律・正義の4原理による方法を正当と論じています。それは、これまで私が取り上げてきた原理と同じですが、「原理と原理の内容の両方は、公衆道徳全体をまとまりのある形にしよう、という我々の試みに基づくものである」(p.37)と述べています。特定の前提、原理や定言的命令に限定する代わりに、彼らの説は多元論的です。規則や権利や徳も扱っていますが、原理が最も抽象的かつ包括的な規範となる、と主張しています。原理は公衆道徳から派生したもので、理性や自然法とは異なりますが、それでも哲学の中に奥深い正当化の根拠があります。ジャンジャック・ルソーらの流れを汲み、全ての人間が生まれつき道徳観を持っていて、それが哲学者のこみいった体系よりも重要であると主張するものなのです。

ウィリアム・フランケナ(1973)は、倫理の主となる原理は善行と正義の二つであるという、ヒュームの公準を拡大させました。善行とは、悪に対して善を最大化するということで、正義が善と悪の分布を指示すると説明しています。ビーチャムとチルドレス(1994)は、自分たちの理論形成に最も強い影響を与えたのは、自己改善の義務、正義、善行、非悪行の四者を挙げていたW・D・ロス(1930)の考え方だと言っています。これらの原理は自明的に拘束力があり、絶対的でも階層的でもなく、どんぶり勘定でもありません。それは規範的な目安となるものですが、バランスを取らなければなりません。ギロン(1986)の言うように、そういった原理は特定の倫理上の問題を解決するわけではありませんが、より厳密なやり方で解決しようとする試みに、幅広く受け入れられる基礎を与えるものなのです。

個人の自律は、社会に属する他の個人の自律を尊重することによって制限されます。福祉は推進されるべきですし、価値観や選択は尊重されるべきですが、それらも同様に個人の自律の追及を制限します。社会の成員全てに平等で公平な機会を与えるべきで、それが正義というものです(ラウルズRawls、 1971)。社会はその未来の姿も包含すべきですが、それは後世の人々もまた、社会に欠かせない構成員の一部分だからです。個人の自律は社会の利害より優ると主張している人々は、尊重されるべき多くの生命が関わるのだから社会を保護するのだということを、心にとめておく必要があります。個人の自律は、社会に属する他の個人の自律を尊重することによって制限されます。福祉は推進されるべきですし、価値観や選択は尊重されるべきですが、それらも同様に個人の自律の追及を制限するものです。

このような原理は、全て愛から派生するものだと私は考えます。これらの原理を保持することは有意義であるかもしれませんが、それが生命への愛から生まれた表現であることを私は力説したいのです。『生医学倫理の原点』(ビーチャムとチルドレス、 1994)の最終文はそういった必要性を認めています。「偉大な倫理学理論のほとんど全てが、人間の道徳的生活において最も重要な要素は、正しく善いことを行う内的な動機と、力を生み出す発達した人格である」と(p.502)。ここから生命倫理理論の中に「愛」が占める位置へと、目を移していくことは妥当と思われます。

 

3.2. 生命倫理理論の中の愛

 倫理的行動の内にある動機や力は、愛から来るものです。愛について書かれた書物は膨大な数にのぼり、これほど親しまれた言葉も余りありません。にもかかわらず、現代の規定的生命倫理において、愛に焦点を当てようとする人がいなかったことは大きな謎といえるでしょう。ビートルズの歌にもあるように、「愛こそすべて」で1960年代をまとめることはできるかもしれませんが、実際的な指針としての愛は、まだまだ追求されていません。通常使われる英語で、善行、慈善(beneficence)という言葉が、愛に一番近い意味を持っているかもしれません。けれども、愛にはいくつもの意味があり、善行や善意という言葉だけでは言い表せないでしょう。利他主義、チャリティーと人間性なども、愛と関係の深い言葉ですが、愛の方がもっと強い意味合いを持ちます。愛には積極的な義務も伴いますので、それは実現の困難な一種の理想とも考えられています。

 いくつかの倫理理論は美徳や動機に基づいています。美徳とは社会的に重要視されている性質や特徴のことで、道徳的美点とは道徳的に価値のある特徴のことです。道徳的美点は、モラルの原則や義務、理想に一致する性質であるといえるかもしれません。ビーチャムとチルドレス(1994)は、彼らの唱える生命倫理理論に基づく原則を挙げて、それぞれに相当する美徳を、次のように対比しています。

生命倫理上の原則 相当する美徳

オートノミーの尊重 敬意を表すこと

悪事を働かないこと(Nonmaleficence) 他人の不幸を望まない心

善行、慈善(Beneficence) 良いことを望む心

正義 公平または公正

ルール 相当する美徳

正直さ 真実性

秘密を守ること 信頼できること

プライバシー プライバシーを尊重すること

忠実さ 信義に厚いこと

行動における理想 美徳の理想

特別な許しの心 特別な許しの心

特別な寛容さ 特別な寛容さ

特別な哀れみの心 特別な哀れみの心

特別な親切心 特別な親切心

 ビーチャムとチルドレスはヘルスケアワーカーのために、四つの美徳を特に重要だとしてあげています;すなわち哀れみの心、洞察力、信頼性と誠実さです。美徳を義務として認めることは難しいと思われますが、関心や哀れみ、気にかけるといった心づかいは倫理的なヘルスケアワーカーの印として一般的に認められています。他に挙げられた美徳の中には、生命倫理の理論に相当する適当な言葉が無いものもあります。例えば誠実さ、快活さ、裏表の無さや献身等がそれです。紀元前6世紀の道教が説いた愛、哀れみ、忍耐、素直さ、優しさや全ての生き物に対する無条件の寛容さなどと、これらを比べてみることが出来ます。

 美徳理論によせられる批判としては、知らないもの同士がであったときにその人たちの間には、あまり深い関係が無いだろうということです(この場合においても、「隣人を愛せよ」という思想は当てはまります)。また、心持ちの優しい人でも間違いを犯すことがあり、誤った行動に出てしまう場合もあるので、誰しもが犯しかねない間違いを考慮する必要があります。どのような倫理理論でも、美徳や道徳的美点を考慮に入れてゆくならば、それは更に完全なものになると思われますし、またそのほうが、日常生活において厳しい規範に従うよりは、大抵の場合、こちらの方が重要であると思われます。

 フレッチャー(1968)は状況主義における美徳の例を次のように挙げています。「愛していても行動が間違っていれば後悔となる;愛があり行動も正しければ喜びのもととなる;愛の無い行動は、ある状況に正しく対処しようと間違って対処しようと、自責の念となる。そのため自責の念は愛すべきものを裏切ったり騙したりしたときに起こるものである。その点後悔は、認識はしているが倫理的過ちではない行動をしたときに起きる。」「常に愛のある行動をせよ」というのは世界的な倫理原則ですが、それだけで独立しているわけではありません(愛とは何かの説明がなされていません)。また、規範的でもありません(どのように行えば良いのかの説明がなされておらず、規定もされていません)。ですから、すべては状況や意思決定者に任されているのです。アガペーは美徳の一つです。フレッチャーはこれについて「経験的データが示すものと結びついた至上命令的な愛が、何をなすべきかの規範を決定する」と言っています。

 状況主義を議論する際に出てくるもう一つの議論は、はたしてどのような状況のもとあっても本質的に間違った行動はありうるのか、という問題です。全ての場合において絶対的に間違った行動はありえないと論じるとき、状況主義は功利主義に従っているといえるでしょう。この考えは例えば、潔白な人の生きる権利はいかなる場合においても侵害されてはいけない、という考えとは異なります。理想化された愛の延長線上に危害を加えてはならないという原則がありますが、これは、人が人を殺してしまったときには例外は無い、ということを示唆しているのかもしれません。愛と尊敬をどのように取り入れてつなぎ合わせるかという問題なのです。

 パウル・ティリッヒ(1954)は、愛を4つの形で区別しました。エピテミア(欲求)、エロス(価値の探求)、フィリア(友情)、アガペー(愛の深さ)がそれで、全てが存在していないと曲解されてしまいます。ティリッヒにとってアガペーは神から与えられるものであり、神そのものであるため、特別な愛の形でした。彼は愛に失敗することを仲たがいや離別の罪としてとらえました。彼はギリシア語のアガペーが意味するものこそが絶対的な愛の原理だと説いています。この意味は「永遠不動の要素だが継続的で想像的な直感に依存する」ことによって維持されているのです(ティリッヒ1963)。ティリッヒによると愛は法的規制、ストア哲学の自然法則やカトリック主義の超自然法則を上回るものであり、「愛を定義することはそれ以上の原理が無いため不可能である」として愛を定義することを辞退しました。彼はキリスト教の伝統である聖パウロやマルティン・ルターに支持を求めました。彼が付け加えたもう一つの原理はギリシア語のカイロスで、「正しいときに」用いるという意味です。この原理は愛が実践され、物に対しても働くようにするために必要です。彼が見た愛とは、ローマ帝国で見られた「平等」以上のものでした。ローマ帝国において愛は冷静で抽象的な方法で用いられており、温かいものではありませんでした。キリスト教において隣人は確固とした愛の対象であり、誰もがなれるものでした。ティリッヒは社会に愛を取り入れるためには、法や制度も必要であると考えています。

 アルバート・シュワイツァー(1966)の『生命への畏敬』は、「命を愛することは命を尊重することの基盤である」と読むことが出来ますが、彼は明らかに愛という表現を避け、尊重や敬意といった表現の方を好みました。彼は全ての生命への畏敬を論じました。このアプローチにおいて生物の高等さや下等さは、私たちには生物が高等であるか判断できないといった理由から、差別されていません。ここで重要なのは、自然の秩序においては、ある生き物が重要であるかどうかを私たちが判断したり理解することは難しい、という点です。生物の命に危害を加えてもよい唯一の理由は、その「必要性」がある場合に限る、と彼は説いています。しかし、何が「必要」であるかは文化によって大きく異なるのです。

 生命倫理理論の一つの選択として、ケアの倫理という表現がとられます。ケアは情感的な公約や約束を指し、またある人にとって意味深い関係を持った人のために進んで行動を起こすことでもあります。この倫理観は近年、フェミニストの論文などで改善がされています。それによると女性は主にケアの倫理を主張するのに対し、男性は主に権利や義務といった倫理を遂行するというのです(ギリアン1982;ベイヤー1985)。ベイヤーは特に愛や信頼といった倫理を考察し、人と人との結束や友情、親と子供の間に見られる関係や、医者と患者の間に見られる付き合いなどに注目しました。人は、義務とか理性に基づく倫理的決断というよりは、付き合いや関係の中で誰かのために何かをしたいと望みます。しかし、ケアの倫理は世界的な原理なしに作り上げられてきたため、普遍性が無いものとみなされてきました。この批評は、ケアが普遍的でないことや感情が文化によって異なるものと推測していますが、ケアの倫理を支えている愛や相互依存といった感情は、個人の権利という考え方よりも普遍的ではないでしょうか。ケアの倫理はまた、男性支配システムにおいて、女性が引き続き支配されるもとになるのではないかという見方もされています(シャーウィン1992)。

 テイヤール・ド・シャルダンは愛を人間のエネルギーの最も完成された形であると認識しました(グラウGrau 、1980)。愛と理知的なエネルギーは相互に独立したものであり、「探求心は愛すべきものを明らかにし、同時に愛する心は更なる探求に引き寄せられる」と述べています。テイヤールの説く愛は希望にあふれ、恐怖をなだめ、コントロールし、責任に作用しうるものであるべきものとしています。テイヤール(1931)は愛の根源的な様相として、次の4つのものを挙げています:引きつけ合う力、親和力、共感とエネルギーの統合がそれです。引きつけ合う力というのは、世界中のものがお互いに引き寄せ合う力を指していますが、親和力と共感は、その中でも特に人間の間に見られる力のことです。愛の統合的エネルギーは、「人のエネルギーを束ねる原理」と呼ばれていました。

 ジョセフ・フレッチャー(1966)は『状況倫理』において、愛は第1原則であり、状況に応じて、また愛をもって問題を解決すべきだと説いています。この本や彼の考えには、特にキリスト教倫理の分野から、強い反応が寄せられました(コックス1968)。新しい倫理観と呼ばれたこの本はまた、神学を民主化し、神学倫理を全ての人に分かりやすいようにする試みでもありました。フレッチャーは倫理システムの構築を叫んだわけではなく、どちらかといえば、状況や前後の関係に応じた判断方法を説いたのです(チルドレス1992)。彼によるとキリスト教の道徳的判断は意思決定であって、結論ではないのです。

 愛とは隣人への自主的な善行であり、何が一番良いかを計算することで感情的な愛とは異なるものだ、とフレッチャーは論議しています。彼は四つのものさし、すなわち目的、手段、動機、結果を基準にして彼の考えを述べています。美徳倫理のいくつかも、愛や善意を倫理的行動であるか否かの判断基準としています。けれども、美徳倫理では動機が最重要視されていますが、フレッチャーは他のものさしに注目し、目的や結果こそが主要な決定要因であるとしています。このものさしのうちのどれが最も愛にかなっているのか、またある状況においてどのように境界線を引けば良いのかといった問題が、彼の理論に対して寄せられました。未来に起こる結果の全てが道徳的計算に関係しているのでしょうか。

 R.M.ティトマスの著書『The Gift Relationship』は、献血を例に挙げて、分け与える心の一般的な社会哲学を呼びかけました。実践的な愛の一形体であるこれを彼は想像的利他主義と呼んでいます。キャンベル(1984b)は「最終的に愛が穏健ではありえない。エデンの園以後の世界において、また専門主義はリスクのある公言を意味しており、愛は偽られる」とも論じています。愛は、私たちの行動を要求するほどに強いものであるべきなのです。図3の臓器提供の例は愛の表現と見ることが出来るでしょう。

デヴィッド・ヒューム(1711‐1776) によると、理屈をつける能力は、アイディアとアイディアの関係を探って、ある事例の真実を確立するときにだけ有益ですが、賛成や反対といった感情は不可欠です(キャンベル1984)。私たちは、自分に有益なものを認めるように、他者にとっても有益であるものを認める傾向がある、とヒュームは信じており、私もこれには全く同感です。ヒュームは『道徳原理の研究』で、他者が喜ぶ顔を求める心理について、人間性を例に挙げて説明しています。「…一人の人間の人間性は全ての人の人間性で、共通の事柄が全人類の情熱に訴えかける(p.273)」と。

フレッチャーのキリスト教を基盤とした愛のとらえ方は、キリスト教の思想家たちの間においても異質のものでした。ローマカトリック教は愛よりも自然法則をもとにして倫理的決断を説明しました。ジョセフ・フレッチャーの初期の本『道徳と薬』(1954)で権利にまつわる論議を取り上げており、この考えから移行して1966年の『状況倫理』が書かれているのです。フレッチャーは決断(又は意思決定)という行動を、三つの基本的なアプローチに分類しました。

1. 反社会通念者(antinomians)は、規則や道徳の基本原理を拒否する人たちです。

2. 法遵守者(legalists)は、特定の道徳規則は絶対的なものであるから、どのような状況においても不可侵的なものであると信じる人たちです。

3. 状況論者(situationalists)は上の二つの中間的な立場の人で、絶対的な道徳規則を拒否しつつも、道しるべとなる道徳原理を探求する人たちです。

 この分析を用いて哲学者達を分類すると、2つのカテゴリーに当てはまる人たちが出てきます。例えばイマヌエルカントは「人は手段ではなく、目的として扱うべき」と言っており、人を利用したり、手段として扱ってはいけないという「道徳的に悪いこと」を断定しています。しかし誰がカントを、例えば命を救うために嘘をつくような場合などでも例外を許さない法遵守者に分類するでしょう。フレッチャーは状況論者として、本質的に正しい行動などは無いのだから、状況に応じて決断を下す必要があり、本質的に「良い愛」と「悪い憎しみ」を考慮に入れることが必要であると述べています。この論理を支えるために彼は、次のようにも記しています。「新しい道徳観には状況倫理という手段を用いるのが妥当で、これは愛に従うものである(人の要求を最優先する自由)。法にはできる限り沿うようにするが、必要とあれば法から逸脱する事もあり得る」と(フレッチャー1968)。

 法遵守者の人々は、「不貞を行うことはいかなる場合においても正しくない」とか「胎児を殺すことはいかなる場合においても正しくない」といった議論をしますが、特定の状況を見ると、これら二つの正しくない行いのそもそもの動機は、愛に基づいていることもありますし、またそれはどの悪行でもないこともあります。フレッチャーは、キリスト教徒の一部が「いかなる状況においても義務として負わされる永久不変の法にしがみついている。彼らは常にある事柄が善であり悪である(神から直接申しわたされている)と信じている。」ゆえに、状況倫理は批判を受けたと述べている(フレッチャー1968)。しかし、彼のあやふやさゆえに、状況倫理は主流のキリスト教倫理の伝統から拒否されました。ローマカトリックの説く倫理は、二重効果の原理を構築しました。例えばある行動の第1の目的が命を救うことで、第2の結果が禁制を破ることならば、母親の命を救うために堕胎をするような場合、その行動は許されます。私たちが考慮しなければならない点は、「〜は常に正しくない」といった原則の例外を認めるということは、法やルールそのもののアイディアを放棄することになるのか、また状況倫理をもっと首尾一貫したものにするのにはどうしたら良いのか、ということです。

マルティン・ルターは、「全ての人が正しい行いをするならば法は必要ない」と述べ、またその著書『世俗的な権威。どの程度までそれに従うべきなのか』のIII.において、次のように述べています。「この世の全てが信心あるキリスト教とキリスト教徒によって構成されていたなら、王子や王、刀や法などはいらない」と。問題は、行動の基盤とすべき原理の全てを、どのように知り得るかということです。ジョン・ロビンソン(1963)は、「そのような状況倫理は、法や、その人個人の経験の積み重ねや、他者の従順さに依存こそすれ、それを卑下することは出来ない。この経験の貯蔵庫こそが、私たちの活動の良し悪しを決めているのであり、それなしではもがくことしか出来ない」と言っています。またカール・バース(Karl Barth、1961)は、絶対的に間違った行為が存在するとも書いていますが、その彼でも、愛に基づく特殊な場合であるならば、最終的な方策(ultima ratio)として、絶対悪とも言うべき人工流産さえもが許される、と書いています。

 パウルティリッヒ(1963)は『Morality and beyond』において実用主義者と実証哲学者が、常識へと導くはずの倫理的直感にどのように救いを求めているかを論議しました。ここで言う常識は、強力な共通道徳のある社会においては確固たるものといえるが、全体の調和が崩れてしまった場合には、有効ではありません。そのため、変わり行くこの世界においては、「人民の基本的人権に関する宣言」などが有益なのです。同時に彼はこうも記しています「愛そのものは、個人の確立された要求や社会的状況に対応しつつ、それ自体の永遠性や尊厳、無条件な効力を失うことなく変化することができる。愛は変わり行く世界のどの面にも対応することが出来る」と。また、「倫理のどのシステムも法や制度なしには実質的な力を持つことはない」とも結論づけています。ゆえに、愛の原理に権限を与えるためには、法システムが必要となってくるのです。

この本の中で私はキリスト教の伝統を多く反映しました。というのも西欧思想における主要素であった長い歴史があり、米国の生命倫理や西欧の考え方の多くは、一般的に神学の影響を強く受けているからです。ダニエル・カラハン(1990)とリロイ・ウォルターズ(1980)は、生命倫理の発展に神学がどのように関わってきたかを、歴史的側面から説明しています。カラハンは「この分野は、宗教や医療が優位であった側面から、哲学や法的コンセプトが優勢な側面へと移行している」とコメントしています。しかし彼はこうも続けています。「結果は世俗的テーマを強調するような一般の話題である:世界的権利、各個人が自分の進む道を見つけること、公平さの手順、共通する善や並外れた個人の善の系統的否定」(カラハン1990)。

愛を医療倫理の基本として探求したもう一つの本が、キャンベルによる調整された愛(Moderated Love)です(1984b)。この本は薬学、看護やソーシャルワークといった職業を、キリスト教の枠の外にも焦点をあてながら検証したものです。これらの職業は、人道的サービスへの献身という形を取った愛の専門職であると言えます。愛は職業的自己発展を超える戒律である、とも主張しています。彼はポール・ハルモス(Paul Halmos)の著した『個人的な奉仕の専門職Personal Service Professions』を引用しています。ここで述べられている専門職は、患者の体や性格に変化をもたらすこと目標としたものと定義しています。愛を定義する際に、キャンベルは兄弟愛もしくはフィリア(相互の理解と尊重に基付いた友情)とアガペー(全人類への関心)の両方を含めています。看護士は主に、慈悲の天使や母性愛、特にコンパニオンシップというイメージと関連つけられています。ソーシャルワークにおける愛は、希望や、落ち込んでいる人を助けるといった形で表現されています。

状況論は、選択をする際には、より普遍的な理論であるといえるかもしれませんが、それでも弱者を守るための最低限の基準が必要です。人とその所有物、それに環境を、最悪の虐待である愛の無い行動から守る必要があることを、法律が証明しています。この本は世界人権宣言(1948)の50周年記念の年に書かれています。この宣言とその後開かれた定期総会は人権を主張しつづけ、その精神はその後制定された多くの国々の憲法にも反映しています。

決疑論は状況に応じた理由付けで、ある特定の状況における実践的選択に注目するもので(ブローディーBrody、 1988;ジョンセンとトゥルミン Jonsen and Toulmin 1988)、状況倫理学はその形体の一つです。彼らは法や権利、理論といったものは、歴史や状況から切り離して考えることが出来ないと主張しています。現在おかれている状況にそぐうような過去の体験をもとにして、彼らは考えるのです。こういった一つの状況の延長に原理があり、倫理理論の構築に反対する提議者もいますが、ブローディーは賛成派の一人です。しかしこの考え方は、愛を中心的原理として考える状況倫理とは異なります。

同情や哀れみといった感情もまた、生命倫理の共通項であるとタイ仏教ではとらえられています(ボイドBoyd、1998)。仏陀の書物でも論じられているように、哀れみの心は愛としてとらえることが出来るのです。一般的に同情や哀れみの心は、特定の苦しい状況において発揮されるものですが、社会的公平さはある状況の不公平さを中心に論じられます。テラヴァーダ仏教の唱える四つの主要な美徳というのは、友情への思慮深さ(すなわちメタ)、同情や哀れみの心、喜びと平静の四者です。

マーハーヤナ仏教において一般的に、自己愛とは菩薩を指します。菩薩は涅槃の酬いを断るという決断の美徳により、「最後のひと葉が解き放たれるまで」仏教に於いては永遠に敬愛され、無尽蔵な思いやりの心(カルナ)の宝庫であるとされています。菩薩は無上の幸福へとすすむこともできましたが、地上に留まりました。他の生き物はしかし、三つの大罪である強欲、憎悪と妄想に縛られています。完成への6つの道は、与えること、道徳、忍耐、気力、瞑想と知恵です。美徳には他にも、親しみやすさや良い行い、親切や良いことを望む心、共に喜ぶ心などがあげられます。良いことを望む心や利他主義は、苦しみに限定されないより広い意味を持ちます。

愛と関係のある言葉のもう一つに、「思いやり」が挙げられます。この言葉はしかし、哀れみや同情と同様に、他者のおかれた状況に対する反応であるとも言えます。シェラー(Scheler、1954)は、思いやりを単なる反応ではなく行動であり、愛するための準備であるととらえています。自己中心的な動機を越えて人々に手を差し伸べるであろう感情を、彼はドイツ語のMitgefuhl(仲間意識・共感)という言葉を用いて説明しています。

これと関連づけられる美徳に、ホスピタリティーや寛大さが挙げられます。この美徳は、イスラム教においても見ることが出来ます。スーダンにおけるホスピタリティーとは、常に訪問者を第1に扱うというものです。スーダン人の倫理を研究してきたノーデンスタム(Nordenstam、1968)は、近代化や都市化により訪問者の増加したことが、外へ向けられていた美徳であるこの慣習を廃れさせようとしていると述べました。寛大さの表しかたはチャリティーと呼ぶことが出来(アラビア語でzakatやsadaqa)、信仰の五本柱の一つなのです(残りの四つは祈り、巡礼、断食と信仰を守ることです)。宗教上の救済として行われるのであれば、無条件の愛という概念よりは不純かもしれません。しかし西洋諸国においてホスピタリティーは、他の多くの国で見られるような広い意味ではなくて、特定の個人に対してだけプライバシーを明かすということであるのかもしれません(モースMauss 1970;ヒール Heal 1990)。

驚かされるのは、一般からの支持が多いにもかかわらず生命倫理の教科書には愛の原理を説いたものが無いことです。次にその理由をいくつか挙げてみたいと思います。第一は、ケース・バイ・ケースや状況倫理では、実践的にどういった行動が一番正しいかを判断することが難しいという問題です。しかし、この問題は他の生命倫理理論のもとでは、それほど明確ではありません。

主要な問題は、愛のイメージや定義に関して対立した意見が存在するということです。多岐にわたる概念が、愛の傘下に含まれることは上記のとおりです。この本を通して様々な愛の定義がなされていますが、同時に各章ではこれらの原理が生命倫理と連携しているかだけでなく、私たちがすでに持つ生命倫理であることを示そうと試みたつもりです。

4世紀に聖アウグスティンは、愛の教義を展開しました。愛は個人を超え、愛すべき対象への愛情を固めるものだ、と説いたのです。人は不完全なため、愛は避けられません。私たちは自分自身を愛し、物や他者を愛するのです。それ自体が悪であるものはありえません。ですから道徳的問題は、人が愛するものに執着する態度や、愛することの見かえりを期待したときに起こるのです。聖アウグスティンは愛を表現するために、四つのアイディアを用いました(オ・ドノヴァンO’Donovan 1980)。宇宙的な愛(Cosmic Love)は物がお互いに引かれ合う力で、ストア哲学の伝統である自然哲学や自然の摂理、また誰でも平和を愛するというアイディアに起因します。積極的な愛(Positive Love)は、私たちの意志から発生する欲求に基づいた愛です。理性的な愛(Rational Love)はもう少し秩序だった愛で、正義や善行を敬う心のことです。他人の幸せを祈っての愛(Benevolent Love )という言葉は、人間がまだ実現には至っていない、ある秩序を指示するために使われてきた言葉でした。凡ての目的は愛されることである反面、究極の満足感を得るために、物質を愛することは、やがて不満につながる可能性があります。彼はまず神を愛し、次に他者を愛し、そして最後に物を愛するようにと、愛を再編成する必要があるとも論じました。

C.S.ルイス(1962)は『四種類の愛Four loves』において、異なる種類の愛を分析しようと試みました。最初に「与える愛-gift love-」と「必要とする愛 -need love-」を区別しました。与える愛は、例えば両親を仕事へと赴かせるもので、将来自分が死んで分け前を得ることが無くても、家族の幸福のために計画し貯蓄するものです。もう一つの「必要とする愛」は、赤ちゃんが母親に助けを求めて駆け寄るような場合を指します。ルイスは「必要とする愛」とは対照的に、「与える愛」は神聖であると主張しましたが、それでも「必要とする愛」を、愛と呼ぶべきであると強調しました。「必要とする愛」はわがままで自己中心的である可能性がありますが、母親に安らぎを求める子供を、自己中心的とは呼びません。また、寂しさから友達と一緒にいたがることを、自己中心的とも言いません。彼はこう記しています「必要とする愛は私たちの貧しさゆえ神を求めます;与える愛は他者に仕えることを熱望し、神のために苦しむことをさえ望みます」と。ルイスは実際四つの愛を認識しました。「感謝する愛」は「我は汝の栄光ゆえに汝に感謝する」と表現されます。愛の中で最も謙虚なのが、優しい想いであるaffection(ギリシア語のstorge)です。彼はこれも「与える愛」だとしていますが、誰かから必要とされなくてはなりません。友情はフィリアと関連づけられ、ルイスはこれを最も本能的ではなく、生物学的にも愛のうちでも必要ないと位置付けました。エロスもしくは恋愛は、生物学的な創造には不可欠で、また優しい思い(affection)は養育にとって不可欠ですが、友情は少なくともほとんどの生物種においては必要がないとしました。四番目の愛を彼は「慈悲、アガペー」と呼びました。この本の他の章でも論じましたが、これら四つの愛に違いはありますが、それでも「愛」という言葉を拒否する傾向はあるようです。

また、人の尊厳が主に主張されていますが、国際法においては愛という言葉は除去されているという現実があります。これはどうしてなのでしょう。人の尊厳は愛にも増して定義することが難しいものです。例えばUNESCOの「ヒトゲノムと人権に関する宣言」(1997年11月11日)の第11条は次のような書き出しで始まっています。「人の生殖クローニング等のような人の尊厳に反する好意はいかなる場合も行ってはならない」と。クローニングが常に人の尊厳に反するものかについては、私には不明なことがいくつかあります。例えばある家族にとって遺伝的につながりのある子供を持つ方法がクローニング以外に無かったのであれば、それが人の尊厳に反するとどうして言えるでしょう。精子や卵子ドナー、サロゲートマザーなどが、商業的契約においても認められているという現実を考えれば尚更です。しかし、核の移植によるクローン羊ドリーの(1997年2月)の登場により、各国のリーダー達はこぞってこれを人の尊厳に反する行為だと声高に叫ぶようになりました。ですから、愛という概念があまり民間に普及していない理由は、他に見つけなくてはなりません。

愛の実践的手法をこの本ではいくつか取り上げていますが、それでもこのコンセプトの有効な広め方とはとらえられていません。というのも、人によっては同じ状況において愛の精神にのっとっても、異なる結論を導き出す可能性があるからです。一つの状況においてただ一つの正しい結論があるわけではなく、また異なる決断を下した人が反倫理的なわけでもない、ということを言いたいのです。

 

3.3. スノッブ気取りの研究者

 私が思うに、研究者たちは規範的生命倫理を独占したがる傾向にあるのではないでしょうか。このことを、私は自身の著書である「人民による人民のための生命倫理Bioethics for the people by the people」に対して、一部の哲学者たちが寄せた、驚くほど敵意に満ちた反応によって痛感しました。このグループの哲学者たちは、一般の人に生命倫理に関する質問をし、その回答を本として出版することを良く思っていないのです。一人の哲学者の言葉を借りるならば、「人々がそう思うことがなんだと言うのだ」というのでした。こういった反応は、自らの意見が正しいと信じ、反対するものは皆間違っていると考えてきた哲学者の間に、特に見られます。このグループの哲学者たちに対しては、二つの反論があります。一つ目としては、規範的生命倫理は生命倫理科学において重要な位置を占めるもので、どのようなグループの考え方であれ、「そのグループの生命倫理である」と言うことができる点です。もう一つは、お望みならば象牙の塔の中で暮らせば良いけれど(図4)、全ての人がその考えに従うことを期待しないで欲しいという点です。特に西洋の宗教や哲学の帝国主義を経験してきた国々では、そういう考えは特に受け入れられないでしょう。

 米国における研究フィールドとしての、生命倫理の起源についての本も書かれていますが(その国に独特のものではないかもしれません)、それには、生命倫理と呼ばれる新しい考え方を哲学者たちが見つけ、社会やコミュニティーからの信望を集めたと記されています。このことは哲学者たちの存続を認めることとなり、ヒトゲノムプロジェクトに付随する形で、何十年にもわたって生命倫理研究に十分な投資がなされる結果を生みました。しかし、米国における生命倫理の起源をたどって行くと、神学者たちもまた、創始者であったことが分かります。社会の風潮がどうであれ、教会が支援を止めることはなかったため、神学者たちの生計は社会的な認識によって危ぶまれることは無かったのです。前にも記しました「状況倫理」(フレッチャー, 1966)もまた、一般の人に分かりやすく倫理を説いたという点で非難を受けたことがありますので、これはとても興味深いことです(Cox, 1968)。

 「オーストラリア、日本、ニュージーランドの高校における生命倫理Bioethics in High Schools in Australia, Japan and New Zealand」という本には、高校教師たちの意見が含まれていましたが、この本に対しても、教師たちの考え方は有益でないという批判が寄せられました。この本は、研究者や他の多くの教師に対して、アンケートに答えた2千人以上の教師が、生命倫理とは何か、なぜ重要なのか、そして生命倫理教育の実践的な問題をどう捉えているかなどを明かにする目的で作成されたものでした。寄せられた批判からすれば、多くの研究者たちは、高校教師の意見に聞く耳を持たないことが分かります。一般の考えを否定すること以上に、紳士気取りのスノッブ根性が根強いことを示唆していると思われます。

 人生のジレンマに対する生命倫理的アプローチに愛を含めたがらないもう一つの要因は、社会や世間一般の技術社会化主義(technocraticalization)によると思われます。科学やテクノロジーによってもたらされた社会の急激な変化は、社会に多大なインパクトを与えました。コミュニケーションや流通によるグローバライゼーションも、その結果のひとつといえるでしょう。この本をインターネットで読む人のほうが、実際の本を読む人より多いでしょうし、ダウンロードして印刷したものの方が、通常の印刷方式によるものよりも多いでしょう。とかく新しい問題には新しい答えが必要だと思いがちですが、本当に必要なのは、従来の原理を応用することなのです。この点は最終章においてさらに論及して行きたいと思います。

 愛に対する批判的な反応の多くは、感情を省く哲学の長い歴史に基づいていると思われます。プラトンやカントは、情緒や感情、情熱や性向を、論理的決断の阻害因子と呼んでいます(ビーチャム&チルドレス, 1994)。これらの哲学者たちによると、良いことを行いという欲求から来る行動は、認知された観念に基づかない限り、倫理的に良いとは限らないのです。同情や哀れみは判断を鈍らせると彼らは論じています。ケアの倫理は、この傾向を正すことになるかもしれませんが、それでもまだまだ非民主的であり、空理空論に過ぎないと言われかねません。

また、人間関係の違いから、その人をどう扱うかは違ってくるとして、不公平なものであると捉えられがちでした。しかし、他者に対する広い意味での愛は公平であるべきで、真の同情や哀れみは、状況に応じた最良の判断をする邪魔にはならないでしょう。

 一部の哲学者たちが規範的生命倫理のアプローチに難色を示している一方で、同じくらいの尊敬を受けている哲学者たちは、受け入れる体制を示しています。前者の反応にがっかりさせられただけに、これは嬉しい驚きでした。これからは同様の方式で書かれた本が増えるでしょうし、コミュニティーでどのような議論がなされているかを発表し、学んで行けたら良いと思います。これからさき、生命倫理のコミュニティーが、こういった点においてどのように分割されていくかは、興味深いことです。私と同じように考える人たちとは、開かれた視野によって、様々な立場にいる人たちから更に多くのことを学べることを期待して止みません。

この生命倫理へのアプローチは、同じく倫理委員会のメンバーシップに見られるアプローチでも、同様に確認することができます。私のルーツとしても、私が理想とする社会の形としても興味深いのが、私の出身国であるニュージーランドです。ニュージーランドは倫理委員会の一般人メンバーというアイディアが、最も寛大な国だと思います。倫理委員会の過半数を一般人メンバー(すなわちアカデミックや医療分野以外の人々)で構成する旨が法律で定められており、議長もまた一般人が望ましいとされています。このことは、アカデミックでない人たちがメンバーであることが珍しかったり、全く聞いたこともないというアジアやヨーロッパとは、対称的だといえるでしょう。日本の倫理委員会などではもっぱら医科大学の学部長が議長を勤め、委員会メンバーの極く少数を、医療分野以外の人が占めているにすぎません。それでも事態は流動的な状態にあり、最近になって、一般のメンバーも委員会に参加しだしていますが、規範的生命倫理は、民間人のためだけでなく、民間人によるものでなくてはならないとする考えは、まだ記載的生命倫理の段階にとどまっているのが常です。

 

3.4.生命倫理の基盤としての『愛』

 結論として、『愛』が生命倫理の基本的な原理に共通する側面を持っているかどうかを、今一度皆様に考えていただきたいのです。第1に、引用文でも示しましたとおり、愛は伝統的なものから現代的なものまで、良いものとして世界的に認められているという点です。また、生命倫理で頻繁に使用されるprimie facie原理の根底に流れるものとして捉えることも出来ます。

 既存の原理より、経験や愛をもとに状況に応じた判断を優先することを批判する方たちもいますが、倫理的体験は英知を養う方法として、古くから認識されてきました。カールバースなどが記したキリスト教の神学書は、20世紀中期の人々の関心を、経験から、神の世界や法律である非存在論へと移しました。経験は状況倫理の根底として、意思決定に再び用いられ始めました。人は自己欺瞞の傾向にありますが、訓練された頭脳こそ発展させるべきなのです。マーチンハイデッガー(Martin Heidegger)やジャンポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)が支持している現象学もまた、特定の結論を要しない方法で、ウィットゲンスタイン(Wittgenstein)が記しているように、日常会話的に哲学者の関心をそそるものでもあります(コックスCox、 1968)。しかし、サルトルは、法則だけでなく、一般的原理としての道徳観に反対しており、上記の議論は、愛に基づいた原理のいくつかは、人間に共通のものであることを示唆しています。サルトル(1947)は、真実と確実性は人の経験にのみ存在すると信じており、それ以外にはありえないとしています(extentialism)。Extentialismは状況論の哲学的祖先として説明されています(カニンガムCunnigham、 1970)。このことは、倫理原則が社会の基本的前提から演繹されないことを意味しますが、私はこの考えには反対です。

 愛を中心的美徳とすることは、卓越した道徳こそが共通のゴールと見なした、アリストテレスの道徳理論に通じます。「アリストテレスは、人の美徳とは、適切なトレーニングと鍛錬によって構築される、私たちが先天的に持つ可能性で、行動や感情や判断する気質のことであると主張しています」(ビーチャムとチルドレス、 1994)。仏教の書物には、マーハーヤナ、同情や哀れみ(カルナ)が英知(プラーナ)を補足するものとして、また啓発を完成させるのに必要である、と強調されています。英知と同情や哀れみは、私たちを悟りや解脱の境地に運んでくれる、二つのものに譬えることができましょう (ボーカーBowker, 1997)。

 もし人が義務や最低限度のことにだけ焦点を当てるのであれば、そこには法は生まれますが、倫理ではありません。高い道徳的理想は、人生のほかの部分を排除することではなくて、次の章に記すとおり、自己愛もまた必要なのです。自分の意思と願望を持つ人は、卓越した道徳を目指すべきであり、自らの構築に勤めるべきです。このことは、いま私たちの地球規模のコミュニティーが目指している世界的目標と見ることも出来るのです。今や私たち個人も、地域社会も、離れ小島ではないのですから、これまでのような状態に満足していては行けないのです。

 ここで一つの観点を皆様と分かち合いたいと思います。マザーテレサのように、愛をもって活動しつづけた聖人は、単なる尊敬の的ではなく、私たちが模倣するべき対照であると思います。しかし、中には現在の自分の生活とあまりにもかけ離れているため、これらの聖人が願望の対象にのぼらない人たちもいることでしょう(ウォルフWolf、 1982)。フリュード(1930)は「文明と不満 Civilization and Discontents」において、黄金法則に従うことを拒絶しました。「‘自らを愛するように隣人を愛せよ’という戒律は、人間の攻撃性に対立する最も強い防御壁となっており、非心理学的出来事である文化的なスーパーエゴの格好の例であると言える。この戒律を果たすことは不可能である;このように過大に拡大された愛は、その価値を下げるだけであり、困難を排除することにはならない。文明はこれらのことには目もくれない;単に、従うのが難しい教訓に従う方がより有益であると忠告しているに過ぎない。」この、全ては理想的過ぎるという観点は、生命倫理関係の書物においても多く見られます。しかし私が思うにこの考え方は、常にでなくともできる限り道徳的ルールに従う方が、全くそのルールに従わないよりはましであるということが認められないところに、原因があると思います。個人的興味の点から論じると、孟子が6世紀に書いているように、人々が世界的愛を難しいと思うのは、人々がその利益と理由を認めていないからだ、と言うことが出来ます。

愛を第1に良いものとして認識しない唯一の理由としては、ある程度の競争が個人の確立と満足にとっては健康的である、とするからです。多く働くものはその見返りを受けるべきで、働かないものは社会からの援助を期待してはならないというものです。また、自然淘汰の点から言っても、最も適したものが生き残ることが重要である、とされるかもしれません。これらの点については、次の章で論じていきたいと思います。というのも、自分の人生を愛することは、他者を愛し、理解しようとする人には不可欠である、と思うからです。

 

  1. 私達自身の生活に根付く“愛”
  2.  倫理を語る上での有名なフレーズに、『自らを愛するように他者を愛せ』が、他者への愛と自己愛を比較していることは偶然ではありません。このフレーズは、自らを愛するように、他者を愛せることを示唆しています。自分自身を愛することの出来なかった生き物が存在しているとは思えません。また自分を愛せない人は、継続的に次世代を残すほど長く生きてはいけないと思うのです。すべての生き物は、ただ生きていくというだけでも、自らを愛する必要があるのです。これを自然の摂理として説明することも、極論としては言えるかもしれません。少なくとも、遺伝子を残すために生殖活動を行うまでは、自己を保存する必要があるからです。

     自己愛の一つの見方としては、一生命固有の命を尊重し、自由なものとして扱うという肯定的なものがあります。私達の繁栄と進展に関心を持つためには、広い範囲での宗教的・倫理的背景が必要です。この見方をすると、倫理的悪はおごりというよりは怠惰、もしくは不活性であることになります(Outka, 1992)。怠惰であるということは、私達の持つ可能性を捨てていることになり、自分自身の生を愛するという機会を捨てているということでもあり、また神や、他者を愛する機会を捨てていることになります。この観点からすれば、自己愛とは良いものでも悪いものでもなく、無関心に近いと言えるかもしれません(自己保存の本能を持たない地球上の生物は限りなく少ないとはいえ)。もう一つの、自己愛をおごりだとする見方については、このあと4.2.のところで述べることにします。

     両親は子供に、自分のことは自分でやるように、また、ベストを尽くすようにと教えます。私達は小さな頃から、仕事や勉強に励むことは、自分のためになることだからがんばるように、と教えられます。学校での勉強や、より高度な教育を求めての競争、最終的には良い就職先に勤めることは、自分自身を愛するべきだという考えを、更に強固なものにします。自分や家族を愛する気持ちを尊重することを自主性、もしくは自立性(autonomy)と言います。

    (原文のニュアンスを尊重するため、この日本語版では、カタカナでオートノミーと訳したいと思います。)

     

    1. オートノミーと自己愛

オートノミーという語はギリシャ語のautos(自己)とnomos(規則)からきています。この言葉には、一人の人間はその人自身の価値観で物事を判断するという意味がこめられています。人が他人と違うということは、ある側面から見るととても分かり易いものです。例えば、お互いの顔を見比べたときや、背格好、衣服の好みによってです。このことは、私達が下す決断にも言えることです。ある人はサッカーをすることを選ぶでしょうし、ある人は読書を、またある人はテレビを見ることを選ぶでしょう。周りの人の圧力によって、ある特定の活動、またはある特定の態度をとることを、余儀なくされときもあるかもしれません。けれども、究極的には私達自身の選択なのです。

オートノミーはまた、個人が選ぶ権利をあたえられることで、権利として認識されています。オートノミーを尊重することは、倫理の基本的な原理であり、信心の自由を認めるような宗教では、初期の段階においても確認することが出来ます。人間のオートノミーを尊重するのであれば、最低限何か、土地や、自らの肉体を所有する権利を認めるべきです。私達は動物であり、ほとんどの動物が(社会的昆虫を除く)自らの肉体を自分でコントロールしています。

オートノミーを認識することの一部は、個人を尊重することであり、機密性を守ることにも関係しています。機密を守ることは、信頼を得るために必要なことであり、医療倫理やビジネスにおける共通の特徴であり続けました。プライバシーには、質問を拒否することも含まれています。例えば医療保険会社が、リスクの低い顧客だけを得ようと、事前に応募者の調査を行うならば、それらの質問を拒否する権利も確保されるべきです。正当で公平な健康保証を推進する解決策の1つは、保険会社に上記のことを守らせることで、更に良い解決策は、無料で治療を受けられる国家の健康保証制度を確立することです。個人のオートノミーを尊重する際に、公平さと関連した内容で問題が生じます。誰もが同程度のオートノミーを主張するような立場や事態が生じたときは、どう対応して行けば良いのでしょう。

オートノミーとは孤立した一つの単位なのでしょうか? 興味深いことに、これは古代ギリシアにおいては、もともとヘレニズム都市国家の自治管理を指す言葉だったのです。それ故に原則を個人だけではなく家族、社会と国家にも適用する先例があります。オートノミーを概念として拒否する理由の多くは、オートノミーが個人に当てはまるものだという誤解に由来しています。日本のように家族を中心として考える社会においては、この原則は家族に当てはめて考えた方が多くの場合妥当なようです。前の章で、西洋の近代思想であるオートノミーと最も共通するものとして、個人の自由の概念を論じました。

M.C.ダルシー(1947)はThe Mind and Heart of Loveのなかで二つの愛を区別しています。一つは、力をもとめ独裁的な自己愛です。もう一つは、献身的な自己犠牲の愛です。先の例はエロス、もう一方がアガーペと言いかえることも出来ますが、ダルシーはこの二つを対にして考えています。しかし彼は、論理的に考えることは身勝手で、アガーペに反対するものになりうるとする一方、論理的思考はまた、他者の利益を探すことも出来るとしています。個人の利益と倫理的義務を天秤にかけたとき、ジレンマに陥ることがよくあります。しかし、ビーチャムとチルドレス(1994)のように、多くの哲学者は、これらのジレンマは倫理的なものではないとしています。私は、これに異論を唱えたいと思います。個人の利益や自己愛、利己的であるということは、オートノミーの原則とは切っても切れないものだと思うのです。

医療倫理においてオートノミーは、権利やインフォームドコンセントと関連付けて論議されます。トーマスパーシバル(1803)が唱えた医療倫理理論は、善行(beneficence)や悪事を働かないこと(non-maleficence)に重点を置いており、オートノミーや正義については触れていません。善行とは、最も良いと思われることをすることで、オートノミーやヘテロノミー(他による支配)の下に含むことができます。外面的な権威が、常にオートノミーに反するとは限りません。また、長期的目標とも区別することが出来ます。例えば、希望する職業につくために必要な勉強を長期にわたって行うことと、その時々に起こる、友達と遊びたいという欲求、などです。

オートノミー(自己決定)に関する西側(倫理)の大原則を、基本的に生命倫理に応用したものが、インフォームド・コンセントという発想なのです。インフォームド・コンセントという言葉が、どこから発生したものか、またその定義についても、議論はいろいろと交わされています。フェイドンとビーチャム(Faden & Beauchamp, 1986)は、インフォームド・コンセントには次の3つの要件が必要であると言っています。

  1. 患者あるいは治療を受ける主体は、適切な情報を提供され、それを良く理解した上で、身体に加えられる侵襲に同意していなければならない。
  2. その同意を得るために、結果を左右しそうな画策が行われてはならない。
  3. 同意の中には、身体に侵襲が加えられることについての、患者側の積極的な了解が含まれていなければならない。

 彼らのインフォームド・コンセントに関する研究に加えて、歴史的に見て、インフォームド・コンセントという考え方が出現した経緯で、考慮するべき二つの意見があります。マーチンパーニック(1982)は、19世紀のアメリカでは「真実を伝えることと、同意を求めることは、土着医療の伝統的な処方の一部であった。この考えは、知識とオートノミーが患者の健康状態に、大抵の場合良い結果をもたらしたと教えている、医療原理に基づいている」と言っています。法律的に見ても、20世紀初めの1914年、法廷でとりあげられた「インフォームドチョイス」までさかのぼることができると、多くの学者が主張しています。ジョンフレッチャー(1983)は1914年の裁判の内容を引用していますが、倫理的義務としてのインフォームドコンセントは、1939年以前に明らかだったとしています。しかし、ジェイカッツ(1984)は、この意見には反対しており、1957年以後、裁判官達は簡単にしかインフォームドコンセントを扱っていないとしています。フェイデンとビーチャム(1986)は、どのように歴史を解釈するかが問題であるとしていますが、1957年のサルゴ判決が法的コンセプトの始まりであったことには賛成しています。タイトルに同意を含むもので彼らが見つけたのは、Purdy(1935)で、真実を伝えるものでは1930年に一例発見されました。同意については、1930年と1940年代のヨーロッパの医学雑誌上で更に見つけられており、そのうちの27の記事は、同意について特筆しています。戦時中のナチの残虐な行動に続き、ニュルンベルク条約では個人が医療研究の対象からはずされることを、明確に記載しています。

古代において医療倫理が確立されていたことは、紀元前3_5世紀の医師倫理綱領の宣誓を見ても明らかですが、同意については触れられていません。しかし、ヒポクラテス全集においては、真実を伝えることや、コンセプトを拒否することについて医師達に次のような内容のことを推奨しています。“患者には、治療にあたっている最中、大抵のことは内密にして置くように…どのような処置がなされているかを悟られないように、注意を他に向けること;…患者の現在、または未来の状態については、何も口にしないこと”(ジョーンズ1931)。しかし、この推奨内容は、結果がどのようになるかを予測することが非常に困難であること、また、激しい顧客獲得競争にあって、未来を正しく予測しなかったというレッテルが貼られることを、医師達が恐れたからだと言うことが出来るかもしれません。ヒポクラテス全集に載せられているのは、医療倫理というよりは、エチケットについての内容が多く見られます。医師達は患者の獲得のために、また、未来の繁栄のために、社会的背景が求めるような望ましい選択を、その医師の能力の一つとして与えたらしいのです。少なくとも、何人かの医師達はそうしたことでしょう。

 1767年のイギリスの裁判で、患者であったスレーターV.ベーカーと、ステープルトンは、医師の異端な医療行為を理由に医師らを告訴しました。目撃証言として、数名の医師達がその医療行為に反対したばかりでなく、患者の同意を求めるべきであったと言っています(フェイデンとビーチャム1986)。アメリカで確認された最初の裁判の例は1889年(パーニック1982)のものです。19世紀のアメリカで、患者が手術を拒否したケースもあり、他の国ではどのような状況であったか、問うてみることが出来ます。19世紀日本の医師、華岡青洲の診療履歴を調べてみると、乳がんで乳房の切断に迫られた女性に対して、彼はちゃんとインフォームド・コンセントを履行していたことが明記されています。

 医療倫理において顕著な、自分自身の生を愛するもう一つの形は、命の尊厳という考え方です。この命の尊厳という考えは、命の危険に迫られている人のために、他者からその人に向けられることがよくあります。この考えは堕胎に反対する人達が、胎児にも尊厳があるとして主張する場面でも登場します。ユダヤ法では、人間の命の尊厳が、他のすべてに優先するものとして扱われています。これは、ヒポクラテス的、キリスト教的また近代的思想の妥協すべてを拒絶するものです(ジャコボヴィッツ1975)。命を保全する義務を優先せよということは、ユダヤ教徒の医療倫理に反映されていますが、胎児の命の保全については、イスラエルからの国際生命倫理調査結果には表れませんでした(メイサー1994)。

 キリスト教徒の役割モデルはキリストであって、ヒポクラテスではありません。カトリック医療倫理には、五つの基本的な原則があります;身体の世話をすること、人間の命の不可侵性(尊厳)、全体性、性別、出産の原則と二重効果の原則です。カトリックの倫理基準に従うように支持されているカトリック病院や医療施設は数多くあります。カトリック倫理基準は、一般的な西洋の基準とは、生殖にまつわる質問や堕胎において異なっており、私が行った調査のフィリピンの結果を見ても明らかです。近代的なプロテスタントの医療倫理は、厳密に構築されたカトリックの道徳神学に比べて患者と医師との盟約関係を重視しています(ラムゼイ1990)。キリスト教の倫理基準では善行、例えば患者のために最大限の努力をする、危害を加えない、等のヒポクラテス的理想が、患者に対してだけでなく、全ての人に課せられた積極的義務だとしています。フレッチャーの唱える状況倫理(1996)については第3章で述べましたが、キリスト教の伝統に基づく生命倫理理論の選択肢のひとつです。

 イスラム教の医療倫理では、医師の望ましいエチケットと性質として信心深く、神を疑わずに、思慮深く、賢明で、ためらいのない行動をとることが求められています(レヴェイ1977)。ここでも、命の尊厳について述べられており、また、危害を加えてはならないことについても述べられています。ヒンズー教の医療倫理には、いくつかの誓約が含まれており、その一つに、構成的には医師倫理綱領の宣誓と類似する、1世紀のカラカサムヒータがあります。また、全ての行き物のために祈る教授もあります。死に瀕した患者に医療的介助をしないという指示は、医師医療綱領の宣誓にはみつかりません(エツィオニー1973)が、ヒポクラテスの他の書物には述べられています。これは、病気が過去、または現在の悪い行いのせいという考えに基づいています。13世紀以後、仏教やギリシャ‐アラブからの影響を受け、ヒポクラテスのものと類似したユナニ医療が発生しました。

 インド哲学にも、危害を加えてはならないという意味を持つアヒムサ(ahimsa)が、指導的思想のひとつに含まれています。今日のインド医療倫理は、ヒンズー教徒西洋思想の両方の影響に加えて、多くの民族の伝統や宗教団体の影響も受けています。インドには異なる宗教を信仰する多くの人々がおり、長い歴史の上でも共存を続け、全体論的な環境倫理が根付いています(アザリア1994)。ジャイナ教では忍耐が善とされ、快楽は罪のもとであるとされているため、真に自由であることは、外界の影響を受けないことと考えるのです。物質社会からどれだけ離れているかによって、薬のない宿命を受け入れることが出来るかもしれません。しかし、インドには独特の薬の長い歴史があり、他の国々と同様、病気を治すことを探求していることを示唆しています。

 近代の非宗教的哲学は、ヒポクラテスのものとも宗教的倫理とも異なっており、最後の10年の内に、患者の権利について考える必要性が出てきました(ビーチ1981;ビーチャムとチルドレス1994)。このことは第3章で論じられました。患者の権利は一般的な市民権と共に現れ、1960年代以降優勢となりました。またこれには、環境への関心も関わっています。AHA、米国病院連合1972は「患者の権利法案」を1972年に作成し、数年のうちにアメリカ政府機関によって、法に組み込まれるまでにいたっています。ヨーロッパ審議会の議員総会は「病める者と死に瀕している者の権利」に関する推奨を1976年に認めており、これによって患者が医療的処置を拒否する権利も認められました。西洋においては最後の数10年のうちに、生命倫理的決断を下す責任は、各個人へと移行していますが、アメリカにおいては行き過ぎの観があります。

 ラタナクール(1986)はタイの伝統的な仏教概念と、西洋の医療倫理の類似性について述べた本を書いています。仏教では、医学知識だけでは医療処置には不充分だという考えがあり、思いやりのある関係が不可欠だとしています。カルマ(運命のようなもの)の概念が認められているとはいえ、他の宗教と同じように、人間の努力で人間の命をのばすことが出来るのです。ある種類の仏教では、第6章で論じますが、ヒンズー教のように命の尊厳が動物にも当てはめられています。

 オートノミーは生命倫理的ジレンマである、様々な生活上の選択にも応用されています。例えば、個人が自動車を移動手段として選ぶことは、環境にとっては重大な重荷です。スポーツに従事して多くのエネルギーを摂取することも、快適な生活以上のことを求めて大き車に乗り、大きな家に住むことは、その人の自由です。ノルウェーやアイスランド、日本において鯨の肉を、個人または文化的自由から摂取しつづけることは、鯨に内在する鯨自身の命の権利よりも重要なのです。しかし、鯨の命を尊ぶ考えは、昔に比べたら広まってきているのかもしれません。

第7章で論じますが、環境に対する働きかけにおいて、オートノミーを限定してしまうという先例があります。熱帯の材木を個人的に好んで選択することは、熱帯雨林の伐採規定によって、限定されてきています。もう一つの例は、個人のハンコに象牙を用いることは、象の絶滅が危惧されているため多くの国で規制されています。第7章では、環境の割り当てと愛との一貫性について論じて行きたいと思います。

 

    1. 自分自身の生を愛することと利己性

 上記のセクションでは、オートノミーについてと、私達自身の生を愛することをどのようにして追及して行くかについて述べました。自分達の子供をとても深く愛し、子供達の未来のためならなんでもする人達について、なにか言えるでしょうか?これは子供の養育という、社会的に共通な義務ですが、上で論じられたように、純粋な利他的行為ではないかもしれません。母親も父親も、半分ずつ自分の遺伝子を子供に受け継いでいるわけです。延いてはその遺伝子の存続がかかっているわけで、利己的遺伝子か進化上の必然という見方をすると、両親は子供の生き残りのために闘わなくてはならないのです。

 両親の子供への愛は大抵、無条件のものですが、非常に重度の障害を持った子供などには、両親から拒絶される場合もあります。この背景には、養育の難しさや苦痛のほかにも理由があるかもしれません。生物学的に見ると、ハンディキャップのために生殖できず、遺伝子を次の世代に受け継いで行けない子供を育てることは、両親の愛に反攻する要因となります。しかし、中には自分の生涯をかけて、不治の病を持ち、子孫を残すことが出来ないだろうと予想される子供を、育てている両親もいます。これは、両親の愛が、ただ生物学的な必然性から生まれているものではないことを示しているのかもしれません。

  しかし、現時点で両親が、生物学的な生き残りのためのマシーン(biological survival machines)以上のものとして子供を可愛がるのは、何か他に目的があってではなくて、その子供と一緒にいることを楽しんでいるからではないでしょうか。人間は社会的動物なのです。ですから、独りで住むよりはペットを飼い、他の種の動物と暮らすことを好みもするのです。拡大家族(extended family)には、異なる世代間の友情や人間関係がいつも存在していました。核家族化が進んだ今、現代の孤立した家庭は違う方法や形で、人間関係を築かなくてはいけないのです。両親の愛とは、単なる生物の生存本能の延長なのでしょうか? 人は犬や猫などのペットを愛しますが、人間生活から離れた動物をも、同じように愛することはあるのでしょうか。

 人間の活動の多くは、頭の中で長期的に将来を見とおして行われます。例えばある社会においては、子供を育てることは違った意味で孫を作ることに発展します。また違う社会においては、子供達が自分の子供を持たず、一生両親の世話をするように、親が子供たちのためにパートナーを忠実に探すことなしで済ましさえしてもよいのです。生物が遺伝子を生き残らせるという衝動は、自らの生存という個人的衝動にのっとられてしまいます。このことを見ても、人間においては、進化上の単なる生物の生存本能は、自らの生を愛することより価値が無くなって来たことがわかるのです。

 人間の利己性に拍車をかけている要因の一つとして、家族の縮小が挙げられます。核家族化が進むと、一人っ子の数も増え、欲しいものはなんでも手に入るものだと考える、子供の割合が社会に対して増えると思うのです。そういった子供の愛の対象は玩具などの物質的なものや、その一人の子供をかまってあげられる、家族からの愛情や献身などです。世界の子供の多くは、わがままを言わないことや、分け与える喜び以外では、何からも拒まれていません。中国の一人っ子政策は、地球の人口問題を軽くしたとは言え、色々な意味で批判を受けてきました。その理由としては、両親がただ一人の子供に全愛情を注ぐため、わがままな子供が育ちやすいといわれているからです。

 現代社会のもう一つの必然的結果は、物質に対する愛です。これはしかし、権力と所有物の追求とした方が妥当な説明になるでしょう。この特質はほとんどの生物種において確認できます。権力や所有物の蓄積は、間接的により多くの配偶者を得ることにつながるからです。金銭を愛することは、その使い方によって異なりますが、自己を愛することと必ずしも同じとは言えません。お金は大家族を養うために使われるかもしれません。しかし、あとからも論じますが、一人の人間、一つの家族、一つのコミュニティーのために利己的であることと、他者への愛がどこから区別されるのかは、明らかではありません。なんにせよ、お金はしばしば人々の抱負や、子供をより勤勉にさせるための報酬として用いられます。両親の抱く良い仕事のイメージとして、給料の良くないものが浮かぶことはまずありません。打開案としてあげられるのが、その人を幸せにする仕事ですが、これにしても利己的なゴールが中心になっています。

 通常他者への奉仕は、ふつうでない人生の選択を正当化するために行われます。例えば、「あの娘はアフリカへボランティアで行ったけど、現地の人を助けることが出来るかもしれないから…」というコメントです。これは、自分の出世やキャリアから離れて、他の人のために自分の時間を割くことを決意した女性の両親が言った言葉です。ボランティアとして自分の時間を割く人達にしても、得がたい経験をし、世界を見ることによって、自分を磨くためであることがままあります。しかし、自分が参加することは自己愛や利己的さとは違います。

 自分を尊重したり、自分の能力や特技に自信を持ったりする意味での自己愛は、非倫理的とは言えません。しかし、過剰に自分を大事にすることは私欲そのものです。自分を大事に思いたいために、人に愛してもらおうとすることもまた、私欲と言えるでしょう。アリストテレスは、もしそれが美徳につながるのであれば、自己愛を推賞すると言っています。ある人が「最も崇高で良いものを自分に与え、自分の中の信ずべき要素が満足し、全ての事柄がこれに従う(ニコマコス倫理学IX,8)」状態にあるということです。その一方で、違った意味での自己愛、すなわち自らに「多くの富や栄誉、肉体的快楽」を与えようとする人達を批判しました。

 人間関係において中心的問題となるのは、友情とはなにか、また、その人にとって友情が意味することはなにか、ということです。アリストテレスはニコマコス倫理学VIIIとIXにおいて、フィリア(philia)の概念を苦心して作り上げています。二人の人が相互に友情を育んだときには、これを評価すべきです。「したがって、善を望む人は善意からのみそれを望むのです、もしその望みが相互的でないのならば;善意が相互的であるときに、それを友情と呼ぶのです(VIII,2)。」愛すべき対象として、3種類の友情;善、快適、便利、も含まれています。最初のひとつが最も重要で、完璧な友情です(2章2節を参照)。友情は善意を超えるものであるべきですが、善意自体にもモラル価値があり、アリストテレスはこれを、不活発な友情とよんでいます(IX,5)。彼はまた、友情で大事なのは愛されるより愛することだと主張しています。ここで例として出されているのが母親の愛です(VIII,8)。アリストテレスは、行動によって構成される人生と自己、という倫理的概念を抱いています。この考えは、人間という物体の持つアイデンティティーに根付きこそすれ、使い尽くされるということはありません。自我と欲望(人と物体)、欲望や選択をすることで構築されるペルソナとの間には、暗黙の区別があります。実質上のペルソナは連続的な欲望や選択、行動や結果から理解することが出来ます(プライス1989)。

 ライシス(Lysis)においてプラトンは友情(フィリア)にまつわる記述を残しています。これに関するソクラテスの結論は「私には、どうやって誰かが誰かの友達になっているのかすら分からない(212a5-6)」。また、次のようにも書いています「私達は、いまだに友情とはなにかを見出せないでいる(223b7-8)」。フィロス(philos)という言葉は次の3通りの意味合いを持って使われています:友人と相互的に同等の意味、受動的には親愛、能動的には愛におぼれるとなりますが、ソクラテスはこの3つの意味を統合して用いています。アリストテレスはニコマコス倫理学と情念論の第1歩としてライシスを書いています(プライス1989)。彼は上記の3つの意味を次のように結合させています「人は、愛されたお返しに愛することで友人となる(情念論‘.2.123a14-15)」。

 アリストテレスの言う完璧な友情は、人をその人のためだけに愛し、代償を欲しがることなくその人に親切にすることです。この考え方でさえも、ナクニキアンには自己中心的であるとの批判を受けました。なぜなら人が他者に親切心を抱くのは、相手を人として評価しているからであり、自分にとって有益だから愛するから。(ソブル1990)。

 ポストキリスト教時代の西洋哲学において、ギリシャ語のフィローシャ(philautia)という単語は負のイメージを持って使用されていました。例えば、アレキサンドリアのファイロ(Philo)は、もろもろの堕落行為の源流として、自己愛が中心的不遜となっているとみなしました。しかし、プラトンの「法」には次のような伝統的格言があります。「全て人は生まれながらに己の友達である。」アリストテレスはこの言葉から友情という概念を組み立てました。聖アウグスチヌスは西洋思想において、自己愛を探究した最初の作家です。彼は、「自らを愛していない人など一人もいない;けれど、ゆがんだ愛ではなく正しい愛を探るべきである」と書いている(オドノヴァン1980)。

 人の魂が卑劣で不親切であるよりは、高尚で親切であるほうが良いというのは、世界的に信じられていることのもう一つの例です。ダライラマ(1995)が書いているように、「哀れみの心を高めることで、プラスの副作用が多く期待できます。その一つとして、哀れみの力が強いほど、困難な情況に立ち向かう際の柔軟性の増加が挙げられます。また、その苦労をより良い方向に向ける力も付くのです」。ヘール(1981)は、「同僚を愛さないものは彼らの内にいても、幸せに暮らせる可能性は低いだろう」と書いています。民間に普及している格言に、受け取るよりは与える方が良い、というものがあります。これは与えることのポジティブな効果を反映しています。しかし与えることが他者への愛によって動機付けられているならば、それを利己的ととらえる人は少ないでしょう。

卑劣で不親切であるよりは高尚で親切であるほうが良いという考えは、戦争では通用しません。戦争中は、殺すなかれという愛の要求より、国家や理想のための愛の方が有力になります。中には、「こんなことをするのを楽しんでいるわけではないが、他に方法がない」と言う人もいるかもしれません。デカルトの「愛する事の情熱Les Passions de l’ame(1649)」において自己は、意思の力では理解できない、または動かすことの出来ない感情から常に防御している情況の元で作られる、と書かれています。しかし、自己完全化への道としてとらえられた時に、愛は目的ではなく手段になってしまいます。愛は自己完全化への道のひとつですが、デカルトは間違った愛の解釈は危険であることも述べています。

愛は私達を盲目にすることもあります。また、神の愛は他の愛と何ら変わりありません。神になれないこと、完全なる真実のごく一部しか理解できないことに対して盲目なのでしょうか。もし神が、理解することを許してくれないのであれば、理解することすら出来ないのです。ただ過去の過ちから学び、次の機会には自らの行動を改良できることを望むのみです。私達の魂が賢くなるように願うたびに、その願いに終わりが無いことを実感します。その中で、間違いの生む被害を最小限に食い止めながら、良いと思うことを出来る範囲でこなしていくしかないのです。

私達の下す全ての判断を深く分析してしまったら、純粋な善行はとても難しくなってしまいます。このことが、愛を実践的な倫理規定とすることから遠ざけているのです。ただし、真意を区別することが難しいからといって、規定を築くことを諦めるわけにはいきません。愛は私達の生活の情熱や原動力となりうるのです。愛は、自分や他者のために良い行いをする欲求であり、何かを所有する欲求であり、利己的な本能です。これらを区別する線をどこに引いたら良いのでしょう。線などそもそも引けるのでしょうか。何かを与えることが自分を幸せにもし、他者への愛も示すとき、この二つの間に線は引けるでしょうか。音楽を愛するということは心を和ませるためのものでしょうか。真実の愛、または混乱した頭脳の生き残りのためでしょうか。神は音楽を触発するのでしょうか。

質問を挙げだしたらきりがありませんが、利己性に話を戻しましょう。トーマスホッブス(1588‐1679)は全ての任意的行動の元となる二つの要素、欲求と嫌悪(物から離れるという行動)を区別しました。彼によれば、全ての人は欲求を満たすことを目指し、嫌いなものを避ける傾向があるといいます。前者を良い行動、後者を悪い行動と呼んでいます。欲求を制限することは、他者とのいざこざが将来長期的な満足感を制限することを避けるためと考えられます。また、社会を安定化させるために必要なことでもあります。

スカグリオン(1963)は自然を愛することとの関連性に着目しました。このために彼は社会的法である婚姻や家族、身分制度、ポジティブな道徳規範に対する嫌悪感、人生において深く考えることから省かれてきたような内容に重点を置きました。彼はボッカッチオのデカメロンを参照し、イタリアやフランスの書物にも着目しました。デカメロンは中編小説や短編小説の系統的なコレクションで、道徳観を比喩しており、多くがインドの書物を発祥としています。

キャンベル(1984b)の『穏やかな愛』には、自己愛と他者を愛する満足感の間の葛藤を分析したものが含まれています。彼はエリックフローム(1962)の『愛する美学』を批評しており、自己愛と他者への愛の両方が重要であることを強調しています(第2章2節を参照)。愛はただの感情ではなく、人が世界を全体としてとらえたときの関係具合を決定する、態度や能力の方向性であるとフロームは主張しており、結束を切望する世界的な感情であるとしています。

ティリッヒ(1954)は離れたものを再び引き寄せる力として愛を説明しています。また、愛は人間の一生においてもっとも根源的な体験であるともしています。彼はこう記しています:「人生とは現実の中に身を投じることであり、愛は人生の駆動力である。この二文には、愛の存在論的性質が述べられている。ここには愛なしでは存在は事実でないことが記されている。愛は存在する全てのものを、他の存在するものに引き寄せる力である。人が愛を経験するとき、人生の本質が明らかになるのである。愛は離ればなれになったものを再び引き寄せる力である。再会は、本質的には共にあるはずのものが離れて行くことを推定している。しかし、離別に再会と同じ存在論的絶対性を与えるのは間違いであろう。なぜなら離別は元もとの結束を推定するからである。結束は、それ自身と不在とを含むように、離別をも内包する。本質的に離別しているものを結束させることは不可能である。」ヴェルヌ(1972)は、「愛は、多様で散在するものを引き寄せる力である。ゆえに、人生のプロセスそのものに近い力なのである」と書いています。人と人とのつながりや、それに続く相互関係を考えることが出来ます(ディルマン1987)。

結論として言えるのは、人は他人に対して愛を持って接している方が自分的にも幸せで気持ちが良い、ということではないでしょうか。仏の言葉Gradual Sayings of Buddha(A.iv.150)には、精神を開放することで得られる八つの利点が挙げられています。それらは、愛が持続し、養われ、頻繁に実践され、慣習にされ、強化され、請け負われ、約束となるほどに増幅された状態を指し、次のように書かれています:「良く眠る。すがすがしく目覚める。悪い夢を見たりしない。人を慈しむ。人間以外のものも慈しむ。神々に守られる。火や毒や武器で傷つけられない。仮にこの世でもっと幸せになれなくても、次の死後の世界ではブラフマーの世界(死後)に昇ることが出来る。」これらの利点が必ずしも起こるとは限りませんが、こういった利点と手を取り合って愛は育つ、と理由づけることは出来ます。なぜなら、自分が人を慈しんだならば、相手もそれに答えてくれるからです。

4.3. エロスと性的愛

 愛と性的欲求について書かれた本は何冊もあります。生命倫理が命に関する疑問を考慮することや、セックスによって新しい命が生まれること、お互いに協力して決断をして行くパートナーの結束を高めることなどから、セックスは生命倫理にとって基本的な事柄であると言えます。現代の西洋文化や英語圏の国において、性的交渉は“Making Love;愛をはぐくむ”と表現されてきましたし、道徳的な含みを持っていました(Verene)。日本における“愛”という表現はもっぱらロマンチックな意味合いで用いられてきましたが、それでも幅広い意味を持っています(フレッチャーもこのことに触れています、1966)。

 どの国の言葉であれ、深い悲しみや喜びといった最も強い感情は、エロチックな愛と結びついているのではないでしょうか。Bayley(1960)はこう書いています;「誰しもが認めるところだがーどう呼ぶにしろーほとんどの人にとって性的愛情は人生の諸相において最も想い出深く、興味深いものではないだろうか。アガペーではなく、こういった愛情、エロスこそ文学が取り上げたがる内容であり……」。アイルランドの作家ジョージムーアは「社会の栄光の一つは、自然が雌を作り出したのに対し、女を作り出したこと、また自然がただ種を永続させることだけを目的としたのに対し願望の連続性を生み出したこと、つまりは愛を生み出したことである」と書いています。彼の視点はとても還元主義者的(reductionist)であると言えますが、それでも愛が生まれたことを喜んでいます。古代ギリシア人はセックスを人間の自然な活動のひとつととらえており、これはプラトンやアリストテレスがセックスに関する倫理的論議を行っていないことからも分かります(Verne 1972)。ユダヤ教の新約聖書が登場するまで、ホモセクシュアルもヘテロセクシュアルも同様に自然な活動であるととらえられており、道徳的論議にはいたりませんでした。人類学的に見ても、この状況はグローバルな生命倫理と大して変わりません。全世界のわずか5%位の人が、婚外セックスをタブー視しています(Haivland 1997)が、最も有力な社会においてはタブー視されています。

プラトン (Plato) はその著書の一つである「シンポジウム」に、ドリンキングパーティーで8人の話し手が愛の性質について語った模様を書いています。愛とは美に触発された性的衝動であるとファエドロス(Phaedrus)は述べています。ポーザニアス(Pausanias)によると、良い愛と悪い愛は人の幸せを促進させたり抑制させたりする度合いによって、区別することができるということです。最後にプラトンの代弁者でもあるソクラテスによると、愛は限りあるものでも不朽のものでもなく、また純粋な改変でもなければ途切れなく連続性のあるものでもないが、その二つが合わさったものであるとしています。ソクラテスはこう言っています「愛は良い自分を永遠に保持するためのものである(206a11-12)」と。愛は人間の領域と神聖な領域の仲裁者なのです。愛(エロス)は人の一生の可能性を引き出すための、情熱的な葛藤であると思います。それはつまり身体的存在の維持、肉体の健康、世界的な善、美的喜び、そして個人的な善の知識による不死の探求なのです。

 プラトンは、エロスは「良いもの、美しいものに対する知識の枯渇」であると宣言しています。プラトンはエロスが魂を理想の世界へと導く力であるともとらえました。アリストテレスはプラトンの定義を発展させて、エロスは全てのものに働く力であり、全てのものが高みを目指したがる望みを代表したものであると説きました。ネオプラトン派はエロスを、世界的な力であり、生存の基本的なエネルギーであり、万物が結合する力へと発展させました(Siegel 1978)。

 プライスPrice(1989)は美しいもの(kalos)が愛に不可欠な理由は二つあるとしています:恋人は美しいものを所持したいと望む(これは愛のゴールでもある);また、特定のエロスでは恋人は、すでに美しいものを所持している人(や愛の状況)に触発される。後者の美は、美の元に生み出すこと、もしくは美の存在下で生み出すことを意味しているのかもしれません。愛が目指す善(agathos)や美(kalon)はそれぞれ置き換えて用いることが出来、最終的には幸せ(eudaimonia)を到達点とします。ドーヴァーDover(1980)はこれらのゴールを発展させ、「美しいもの(kalon)全て、たとえば見た目が美しいものや聞こえが美しいもの(もしくは熟慮するのに良いもの)は善(agathon)でもある。すなわち望ましい目的を果たすか望ましい機能を果たすが、逆もまた同様である」と言っています。美(kalon)は自らを魅力的に表現するものであるのに対し、善(agathon)は誰かに何らかの形で良いもののことです。美は私達を引っ張るもので、善は私達を助けるものですが、どちらも同じだけの価値を持っています。私達を惹きつけるものがなんであれ、自分の判断が良いものであれば私達のためになるのです(プライスPrice 1989)。このように、愛のゴールは美しいのです。

 性的愛情はただ良い事を望むだけではありません、というのも「どれだけセックスレスでカジュアルな付き合いであったとしても、二人の人間の間に起こりうる(シンガーSinger 1987)」からです。また、愛無しでも起こりうる生殖本能にまで引き下げることは出来ません。シンガー は性的な愛が少なくとも1人が性的に切望する人に役立って、その人の幸福を気にする傾向を明らかにすると言っています。オズボーン(Osborne 1994)は、古代に用いられたエロスに対して別の解釈を説いており、その中で愛は説明不可能なもので、なぜ誰かを愛するかはわからないと論じています。誰かや何かの良い性質を望んだり、あこがれたりする気持ちは愛から生まれるものではあるが、愛そのものではない、と彼女はとらえています。愛とは動機や目的がなくても身につくものであるが、私達が愛するものに対する見解や反応をまったく変えてしまうものである、というのがオズボーンの捕らえた愛の姿です。

 キリスト教は伝統的に、エロスと言う表現よりもアガペーやフィリアといった言葉を好みました。というのも、エロスという言葉には、性的な意味が内包されているからです。これに加えて、アガペーは神から来るもので、誰にでも存在可能だったことも理由の一つであるのかもしれません。アウグスティヌスは、ネオプラトン派の説いたエロスと、キリスト教の説いたアガペーとを統合しようと考えました。様々な愛の形の中でエロス、性的愛情もしくはロマンチックな愛は、エゴを満足させることと最も密接に関わっている形、としてとらえられてきました(ソブルSoble 1990)。エロスは愛する対象の中に価値を求めますが、アガペーはその価値を作り出します。アンダースナイグレンAnders Nygren(1969)はエロスとアガペーをまったく無関係のものとしてとらえ、前者が世俗的な愛であるのに対し、後者は神聖であるとしました。最も精神的な形である天来のエロスであっても自己中心的であるのに対し、アガペーは神中心であると説いたのです。

 フリュードFreud(1921)によると、愛の核となるのは性的結合を伴う性的愛情であるということです。フリュードの説くエロスは自己愛と同義関係にあり、ギリシア後のエロスやインドのカーマ(kama)と同じように、両親、子供、兄弟や人間性全体への愛でした。「シンポジウム」のなかに描かれたプラトンのエロスは愛の力や、精神分析で言うところのリビドーに一致するとフリュードは言っています(サンタスSantas 1988)。プラトン派のエロスはある個人のために永遠に善であること、すなわち永久に良い感情を持ちつづけることを目的としていました。プラトンは愛の価値が対象物の価値に完全に依存していることも含めています。これは前にも記したとおり、プラトンが美や善を何よりも高く評価していることからも分かります。しかしフリュードはリビドーの目的を達成感や幸福感だとしています。フリュードの愛は、無意識的なセクシュアリティに基づいており、もっと直接的な満足感に依存した愛の本能であると言えます。

 お互いが愛し愛される深い関係は、愛する側と愛される側のオートノミーに挑戦するものです(ラムLamb 1997)。このような場合、自己という単位は二人、または共同で一つの目的に向かって働くことで、それ以上になる場合もあります。生命倫理的に考えると、デリケートな話しを友達や家族としたり、医療行為に関する同意を得たりと、多くの問題を引き起こします。個々の道徳的な動機を特定のものにまとめる現象は、他の愛の形や、家族間でよく見られますが、エロスによってつながったカップルの場合には絶大な力となります。

 同時にエロチックな愛の力は、プラトンはヴィーナスとエロスのせいにしていますが、エロスマニアであれば病気としてとらえられてきました。ハリアッバス(Halyabbas)とアヴィセンナ( Avicenna)の書物からも分かるとおり、中世の薬学においてセックスは自然なものとしてとらえられていましたが、情熱は病であるとされました(スカグリオンScaglione 1963)。興味深いのは、セックスは動物的本能であるから自然だが、情熱や妄想は病気であるとされていたことです。「ハムレット」でシェイクスピアは「狂おしいほどの愛でなければ、愛ではない」と書いています。現在でも、恋に破れた人を助けようとする専門のカウンセラーが多く存在します(Pope 1980)。この事実は、ロマンチックで性的な愛情を制度化する結婚が、世界の多くの場所では、家族や地域社会を形成する核となっているからかもしれません。

 世界には多くの結婚の形があります。結婚を定義すると、「男性と女性が継続的に性的交渉権をお互いに持つことを社会が認める契約として認識していること。また、女性には子供を産むのに適任であること」(ハーヴィランドHaviland 1997)となります。結婚は性的関係に社会的、法的、そして経済的な保証をもたらしますが、もちろん婚外での交渉が起こりうることも忘れてはなりません。一つの新しい家族が生まれることは、全ての社会において結婚の結果であるわけではありません。一夫一婦制は一夫多妻制よりも複雑ではないかもしれません。しかし西洋社会においては結婚と離婚を繰り返す「シリアルモノガミー(連続的一夫一婦制)」が日常的になってきており、結婚は昔のように確たるものではなくなってきました。現代社会において多くの場合、結婚はロマンチックな関係に基づいています。インドは逆に、結婚した相手を愛するというアルタナティブな方法を現在でも多く取り入れている国といえるでしょう。しかし、中世ヨーロッパのほとんどの場合、結婚は愛によるものではありませんでした。その裏づけとしてこんなことわざが残されています。「感情的に妻を愛することは姦通である」

 性的愛情は一般道徳を論議する上での一つの例として用いられてきました。また、哲学者のほとんどが、性的愛情に付いて何らかの記述をしています(ヴェルヌVerne 1972)。文学において多くの著者が、たとえばAdonaisにおけるシェリーのように(オルサップAllsup, 1976)、アガペーやエロスについて熟考しています。インドでは、ロマンチックな愛情を司る神はカーマと呼ばれています。カーマはエロスのように、感覚的な愛着や性的快楽・欲求の神聖な人格化であり、全ての生き物がもつ生命力の基底であると言えるでしょう。性的な愛は神聖な愛をモデル化するときにも用いられています。例えばキリスト教における男女の結婚は、教会と神に置き換えられることがあります。1630年から40年代にイギリス王室のために書かれたヘンリエッタ王女の仮面劇で、愛は個人を超えるもの、性的愛情や自然発生的なものから、神の摂理との関連を信じさせるものへと発達しました。これらの劇のなかで、女性達はセックスの延長として、人間の高潔な行動や関係全般を含むとしています。Honnetes femmesと記されている彼女らは、美や美徳を守るものとして描かれています(ヴィーヴァースVeevers,1989)。

 進化の過程で家族の安定に不可欠とされるロマンチックな愛とセックスとは、本質的に関係しています(ライトWright, 1994)。セックスはまた、いざこざのあったカップルが和解する方法として用いることが出来ます。ボノボの群れでは、和解の方法としてホモセクシャルとヘテロセクシャル、二つの行動が認められています。喧嘩が起きたあとのこういった行動は、群れの結合を深める働きを持っているようです(デワールde Waal, 1988)。ホモセクシャルな行動は、アカゲザルやヒヒにおいても確認されており、人が結束を高める方法として指摘されています(Wilson, 1987)。従って生物学的にエロスとフィリアを関係付ける際にルイス(1962)は、エロスを“恋している状態”と捉えました。そして、エロスよりも愛情のほうが動物に近い感情であると考えました。彼はエロスを性的関心のバリエーションのひとつで、人に特有のものであると捉えたのです。しかし、愛は性的活動よりも長く続くもので、セックスよりははるかに私達の人間形成に影響しているのです(ブラウン, 1987)。

 エロスはきっと間違いなくセックスに限定されてはおらず、むしろエロスは知ることへの原動力といえます。知性にはそれ自身のエロスがあり、学ぶことへの原動力です。純粋なエロス、もしくは原動力は、アガペーによってコントロールされていなければ、自己中心性や自主自立に最も近いのかもしれません。我々の意識について考える前に、命の質(クオリティー・オブ・ライフQOL)について考えてみたいと思います。

4.4. 自己愛とクオリティ・オブ・ライフ(QOL)

 病気にかかった人の多くにとっては命の長さよりもその質(QOL)のほうが重要だと思われます。最悪な状況であれば、生きていることにはそれほど価値がないからです。先進工業国の人々の多くは、遺伝や病気を克服して寿命を80歳から100歳へと延ばしています。しかし、それより重要なのは生物的、社会的、そして精神的なQOLの向上に努めることではないでしょうか。この問題は安楽死や出生前診断とも密接な関係にあります。

 遺伝因子が再構成されるときには、しばしばまちがいが起きるものです。そのため、ヒトの生殖は高い頻度のエラーと隣り合わせなのです。遺伝的異常を持った胎児は約70%の確率で発生すると考えられ、これはより単純な動物に比べて非常に高い数値です。遺伝的欠陥を持った胎児のほとんどが、自然に淘汰されます。しかし中には生まれた何年か後に死ぬものや、苦痛に満ちた人生、そうでない人生を送るものもいます。遺伝子の間違いによって脳に重度の障害を持つことが予想される胎児は、“普通の”人とは異なる“人生”を送ることになり、潜在的に異なるのだと言う人がいるかもしれません。

 このようなジレンマを、愛はどう助けてくれるでしょう。「Fundamental Principles of the Metaphysics of Morals」においてカント(1785)は自殺を禁止することは世界的な格言であり、道徳的法の一部であると論じています。自己愛の原則は個人の人生を改善させるものであるはずなので、自己愛によって命を絶つことは間違いであるというわけです。ニーチェもこの見解を「Die Froehliche Wissenschaft」で次のように肯定しています「人生、それは私達の中にある死を望む何かを常に追い払うことである」しかし、自己確定やオートノミー(自主・自立)の原則を見ると、人類には自分の人生やゴールを追求する際に、自ら決定する自由を持っていることが伺えます。少なくとも、外部からの援助、それが医療においてはルーティーンとも言える輸血であっても、拒否する決定力を人間は持っています。

 愛を倫理の基本として考えると、他の生き物や人間を意識していないと思われる動物においても、自己愛が存在することになります。命を愛する力はとても強いものです。私の心の中にいつまでも鮮明に残っているのは、カイロの道端を這う、傷ついた犬の姿です。犬は車に引かれた直後であり、前足でしか歩くことが出来ません。それにもかかわらず、残されたその足で懸命に道路から逃れようとしていたのです。これこそ痛みや苦しみをも跳ね除ける命への固執、命を愛する力ではないでしょうか。命を愛する欲求を再評価するときに問題となるのは、その質かもしれませんが、少なくとも緊急時において個々の生物は、生き延びることをまず望むものであると推測して良いのではないでしょうか。

 次に、重度の障害を持った新生児のケースを考えてみましょう。私達は最も病んだ形で生まれてしまった人間と神との、精神的な対話の可能性すらも否定してしまうのでしょうか。知能の発育の非常に遅い人が精神的に覚醒しないと断言できるでしょうか。多くの宗教が「価値のない」命などないと主張するでしょう。全ての人間は神の眼から見るとかけがえのないものだというのが、キリスト教での教えです。仏教で語られるのは、全ての命に宿る「カルマ」です。しかし慣例として、命を救う際の干渉には限度があることも事実です。

 人は誰しも、自分一人で生きているわけではありません。次の章でも述べますが、政策を打ち立てるときには社会的公正が考慮されるべきです。社会の物資の割り当てには、社会的利益や生産性、QOLや支払能力よりも、公平さが問われるべきです。公平さを求めれば、限られた資源を配分する一つの要因として、QOLを考慮することにつながります。実際考慮しないのであれば、それは他の人々の命を無視していることになります。どれだけお金や犠牲がかかっても延命する、というのは患者や神の意思を汲んでいないのかもしれません。日常的な医療処置と日常的ではない医療処置との区別を、最初に論じた方の一人は、ローマ法王パイオス(Pios)XII世(1957)であったかと思いますが、同法王は次のように記しています。「私たちは通常、その状況や事態に応じて、普通の方法による医療を許されています。しかし、自分や他人の生命を延ばすために、重すぎる負担をかけることを強要されてはいません…。生、死、そのほか全ての肉体的な活動というものは、精神的なものの終焉よりも下位にあるのです」と。

 QOLは各個人に関係しており、その概念は状況や時代と共に変化します。各人の自己愛のたどり着く先は、それぞれの可能性を探求することから十人十色だと思われます。ひとそれぞれの希望や野心があり、ある状況から成長する度量はとても重要です。最近ではQOLが悪くなる前に自分で対処を選べる、リビングウィルが導入され始めています。

 行動と省略(acts and omissions)の区別は、例えば重度の障害を持った新生児を生かすか殺すかといったケースなどでは、とてもあいまいなものなのです。しかし、安楽死をどんどん増やす滑り台に対する歯止め役を果たす、法的拘束力を有するバリヤーになるかもしれません。オランダの法律ではある程度の積極的安楽死が認められています。この法律に反対する意見の多くは、積極的安楽死が神意を妨害しているというものですが、近代的医療の多くがすでに自然の摂理に干渉していると反論することも出来ます。命を神聖なものとするのであれば、オートノミーや自分の命を決定する権利といった近代的思想を拒否することになります。実験的なセラピーによって延命行為を行うことは、命を縮めることと同じ位に神を欺いていることになるのではないでしょうか。

 ある人を「人間らしく」なくしてしまう病気は、その患者の周りにいる人がその人に対して愛や関心を持って接することで、周りの人達をより「人間らしく」しているのかもしれません。倫理的に理想とされる態度とは、真の人間性にそぐう行動である必要があるという強い主張があります。真に人間であるためには愛することができなければならないのです。私たちが考える他人の苦しみや病気は、しばしば、私たちがそう考えているだけの事なのかもしれません。苦しみや病気に対してその人も、私たちと同じ感覚を持っていたら、こう感ずるだろうと、想像しているだけのことかもしれません。(ハウエルワースHauerwas, 1988).回避された苦痛というのは、患者本人よりもその家族のものの方が多いのかもしれません。それでも、私達には永遠に理解できないほどの苦痛に耐えている人生があることは、皆が認めるところだと思います。

 生命の価値をめぐる問題は(ハリスHarris, 1985)、生命倫理における基本的に重要な課題になってきています。特に、遺伝子操作のような新しい技術に企業が参加しようとするときや、遺伝子異常のスクリーニング検査と生命のコストとに関する差引勘定をするときや、それが否定的な意味合いのときなどに、重要な課題になってきています。すべての病気を治療し、治したいという理想があるにもかかわらず、そこにはおのずと限界があります。この限界には、技術的なものの他に、財政的なものも含まれています。

 愛に制限をつけたり、愛を表す機会に制限をつけたりすることを避けると同時に、死を遅らせる方法を、技術的な解決策にだけ押し付けることは避けなければなりません。それはある状況が、「手におえない」から「このさきは神か運命に任せてしまえ」、という態度と同じではないでしょうか。QOLにまつわる問題を無視することは、ダチョウが砂に頭を突っ込む姿と同じことです。自らが行動することもしないことも、どちらも倫理的な決断であり、そういった決断を下すときに我々の道義心が問われているのです。

    1. 愛と意識

 個人を、隔離された人間として扱うことが出来ないのと同時に、道徳の伝達者は、その行動に道徳的責任を負うものと言えるでしょう。子供達が、家族や近しい友人、学校や社会一般から道徳的判断能力を養うことを、私たちは期待しています。宗教的な指導の多くは、学校外の時間である教会の日曜学校やモスク学校など、さまざまな入門セレモニーにおいて、倫理を教えるという務めも果たしています。意識(conscience)という言葉は、動詞としても名詞としても、使用することが出来ます。フレッチャー(1966)は「意識」とは、創造的で建設的かつ状況にふさわしい決断を下すための単なる言葉である、としています。状況倫理は、過ぎ去った懐旧の決断よりも、将来的な決断に重きを置いてきました。彼は思慮分別と愛を、他者に良いことを行うという点において、同等のものとして扱いました。思慮分別は愛に必要な慎重さを与え、愛が正義となる手助けをしています。

 個人の道徳観念の構築における意識の確立は、心理学や教育学において研究されています。フリュードはスーパーエゴ(Superego)の観念を用いて、私たちの態度を統制する際に含まれる、義務と罪悪感を説明しました。エゴの理想は、個人が熱望することにポジティブな価値を与える反面、意識は個人の本能的な行動を禁止し、コントロールします。子供が成長するにつれて、両親のコントロールは、子供の内面的な感情や行動のコントロールに取って代わられます。これは子供が5歳くらいのときにこり易いのですが、両親の権威は外的なものとしてではなく、むしろ両親の道徳的権威を内面化し、自分の一部として「意識」するようになるのです。

 行動のコントロールや自己満足の追求において、意識の重要性が認識され、また、その意識が幼い段階で発育することも分かっている今日、学問的原理に基づく道徳観念を、決断を下す際に意識の代用となるよう、子供が成長してから教えるというのは、少し認識が甘いのではないかと思われます。私たちが行っている選択は、今では覚えてもいない幼少児期の経験に基づいているのかもしれません。この選択は、必ずしも客観的ではないでしょう。愛を生命倫理の原理として推進して行くのであれば、それがはたして教えられるものなのかと、自らに問いかける必要があります。私たちは愛することをどのように学んでいるのでしょう。他の方から愛することを教えられるものなのでしょうか。プラトンはソクラテスとの会話を収録した「Meno」という書物のなかで、美徳を教えることは出来ないと言っています。一方プロタゴナス(Protagonas)は、美徳を教えることは可能であると言っています。プロタゴナスによると、美徳は両親や友人、兄弟や幼少児期に聞かされた話しや同僚達から教えられるものなのです。もし私が学問によって愛することの必要性や、意識を持つことの重要性を教えられる力を信じないのであれば、この本を書く意味はありませんし、生命倫理を教えることは時間の無駄となってしまいます。

 もし私たちが自らの躍進を望み、自己愛の欲求どおり可能性の全てを開花させたいのであるならば、それは同時に私たちの生き方を改善し、間違いを減らすことを意味します。行動の罪と呼ばれようと遺漏と呼ばれようと、それでも私たちは努力しつづけるべきでしょう。多くの人は愛の力(もしくわ神の力)だけが、人の魂を愛あるものにすることが出来るといいます。しかし、生まれ育った環境がどうであれ、殆どの人が悪いことをしたり間違いを犯したりはしたくないと思っているでしょう。次の章でも述べるように、私たちの社会では自らの行動を意識しない者に対して、厳しい判断の方法が用いられることがあります。

 キリスト教聖書の、ヨハネによる第4の福音書はギリシア語の「ロゴスLogos」という表現で始まります。英語では「言葉Word」と訳されており、世界を統治する原理を理解しようとするときに、頭が捜し求める真実のことです(ウィリアムス、 1967)。このことは先進工業国においてポピュラーになってきている、科学的で論理的に社会を理解する方法とも共通しています。また、前の章で論じました「規範的生命倫理」の構築アプローチにも、共通する点が見られます。聖アウグスティヌスは知識人たちが愛と同等のもの、神の存在と真実、を探求していることを理解していました。しかし、知識人たちの仕事は愛ある生活の中で方向付けられたときのみ、効力を発揮するともしています。ギルソン(Gilson、1961)が記しているように、“他者を全身全霊で愛することは、自己犠牲や自己所有の否定を意味するわけではない;完全に公平な基盤において、自らを愛するように他者を愛することである”ものなのです。アウグスティヌスはプラトン派が説く真実を知るためには、まず個人を律することによって、知識人の方向性を再確認する必要がある、という意見に賛成でした。しかし、彼は知識のみで愛を理解することの限界も感じていました。彼は、完全なる自己愛を、神への愛とみなしました。

 仏陀はそのGradual Sayings(説諭)(A.iii.443)のなかで、本書の2.2.でもすでに触れましたように、人生の様々な苦悩への対処仕方や解説をある僧侶に説いて、6つの賞賛に値する言葉を挙げていますが、その最後の6つ目は、「僧侶の重大な仕事の一つは、愛のある行動で教師を助けることである」というもので(ここにも「愛」ということばは出てくるので)した。愛のある行動というのは、一人の人間を精神的な汚染から永遠に解き放つ洞察のことを指します。ゴタマ(Gotama)もまた、Gradual Sayingsにおいて“精神の解放、すなわち愛”に代わる現象はない、と僧侶達に訴えています(アロンソンAronson、 1980)。精神の解放は、怒りに取りつかれる等の障害から解放されることを意味します。僧侶達は愛する心を養うべきで、どのような人に対してでも持ちうる愛を世界的なものにするよう努めるべきである、とも教えらていれます。

 世界的な愛には、卓越した同情や哀れみ、愛と思いやりのある喜びなどが含まれます(Gradual Sayings A.iii.224-5)。自己を広げるための手段として愛を捉えるこの考え方は、ヴェーディック(Vedic)哲学に従ういくつかの宗教理念に、現在でも見ることが出来ます(アーロンAron、 1986)。自己を広げる形の一部として、他者の見地を自らに取り入れることも含まれていると思われます。私たちの意識については、いくつか疑問が浮かび上がります。私たちの意識は、愛を欲する他者の叫びによって行動に移されるべきものなのです。

 シェイクスピアはロマンチックな愛について書いていますが、“意識を知るのには愛は若すぎる”とも書いています。愛は論理的判断を曇らせるものかもしれませんが、完全な愛は意識の力と共に導かれるものです。それに加えて、自己愛と他者への愛を切り離すことは出来ません。健康な人間にとって、幸せを見つけるためにはこの二つの感情が、両方とも必要なのです。知識は愛を必要とし、愛は理知的な理解を必要とします。理由づけられた感情の力は、実践的なジレンマを解決するのに役立つでしょう。個人と文化の両方においてトレンドや意識や常識があるように、決断を下す際の知識の活用法や知識自体にも違いがあります。愛を与えることに限度はあるのか、私たちは問うことが出来ますが、同時に、愛を与えることで私たちの心が回復し、生きるための力を得られるとも思うのです。それではこのことが人間社会においてどういう影響を与えてきたか、また、これからどうあるべきか、などを見ていきたいと思います。