「学校における生命倫理教育ネットワーク」第25回勉強会報告

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ダリル メイサー(責任者、筑波大学 助教授)
〒305 つくば市 筑波大学 生物科学系
生命倫理に関する教育研究グループ
ファックス番号:0298-53-6614


日時:12月8日午後3時〜6時
場所:私立芝学園
内容: 「こころの病を考える」
井出知綱 石塚健大 私立芝学園 (高校)社会科
科学・医療技術の発達とともに、さまざまな病気の原因が解明されてきている。 それは、精神的な病気についても例外ではない。芝学園相談室の協力のもと、まずは青年期の子どもたちを取りまく「不登校」や「不適応」の問題をきっかけとして、もう少し広い視点から「こころの病」を取り上げてみたい。

参加者
ダリル・メイサー (筑波大学生物科学系)
前川史 (筑波大学大学院)
坪井重子 (埼玉県立庄和高等学校)
栗本学 (東京都立調布南高校)
井上兼生 (埼玉県立大宮中央高校)
小泉博明 (麹町学園女子高校)
白石直樹 (東京都立足立新田高校)
橘都 (東京都立羽田高校)
石塚健大 (私立芝学園)
江口一哉 (私立芝学園)
*** 遠藤
*** 横山
*** 永田
菅井太一 (創価大学)

勉強会の流れ
今回は、芝学園で実際に石塚先生が実践された授業例を元に、不登校や不適応などの問題をきっかけに、こころの病について考えていきました。発表の際に配られた資料からキーポイントを抜粋して、大まかな内容をまとめたいと思います。完全なコピーは、ユウバイオスCD−ROMの最新版、そしてホームページに含まれていますので、そちらをご参照ください。まず、芝学園での倫理の位置付けは、高校1年では、必修の週2時間、高校3年では理系選択の週3時間があてられています。生命倫理を授業に盛り込みたいと思い始めたのは、“生徒が「生きる」ことについて考える上で、何らかの動機と材料を与えたいと思ったからである。芝学園の生徒はおそらくまじめでおとなしい部類に入ると思われる。ただ、ぼくたちの目には受動的で、詰め込み学習に慣らされた生徒と映る部分も否めなかった。その生徒たちに対して、何がしかを「自分のこと」として受けとめ、考えてほしかったというのがぼくたちの意図であった。”
 次に、正常と異常の定義、こころの病気の原因や、こころの病気の分類について、説明がありました。そして、教育現場での対応の仕方として、まず、教師の側からの関わり方について、“教育の現場にいるぼくたちが精神障害といかに関わるかについて考える上で、精神障害を、「日常の生活が困難であるか、または障害が外見上あきらかであるもの」と「日常生活に支障がないか、または障害が外見上あきらかでないもの」に分類してみたい。”という提案がありました。
 日常の生活が困難であるか、または障害が外見上あきらかであるものは、“たとえば器質に起因する重度の知的障害のように、専門的なケアが必要なものがこれに該当するが、これに関しては教員と生徒という関係のもとで(ぼくの立場においては)日常的に接することはない。ただし、社会生活のなかでこうした障害を持つ人の存在を認めなければならないのはいうまでもない”。そして、日常生活に支障がないか、または障害が外見上あきらかでないものは、“ぼくたちが日常的にまず気にかけなくてはならないのはこちらである。児童期ないし青年期に多いものを挙げるならば、「対人恐怖」とか「社会恐怖」と呼ばれる症状がある。他人からの評価を必要以上に気にする状況がそれである。具体的には、他人の視線を過度に気にする「視線恐怖」自分の体臭が他人に不快感を与えた結果他人に嫌われていると思いこむ「自己臭恐怖」などが挙げられる。誰でも他人に接したときに少なからず緊張感を覚えるが、それに対する不安感から引きこもってしまう場合さえある。きっかけは、日常のちょっとしたできごと――たとえばふと耳に入った友人の一言――である場合が多い”という説明がなされました。
 さて、ここで実際に石塚先生が担当された生徒さんの話に移りました。“芝学園の相談室では以前、「トゥレット障害」という症状を持つ生徒と向き合ったことがある。この障害は、運動チック・音声チックを主症状とする神経の病気である。現在、これは脳の器質障害と位置付けられているが、日常の生活において介護が必要であるというものではない。だからこの生徒は小学校での生活を普通に過ごし、中学入試を突破して芝中学校に入ってきた。ところが、中学入学後に、他人の反応を気にして自らのチックを抑えた生活をし、結果として不登校になってしまったのである。小学校時代はおそらく本人もあまり気にしないうちに周りが、たとえそれが「変わったヤツ」というものであるとしても、彼を受け入れていたのであろう。ところが、中学校入学とともに周囲の環境が一変し、新しい人間関係を築くにあたって、彼は未知の級友の反応を気にすることになったのであろう。ノ1.1でも述べたとおり、正常と異常の境界にいまだあいまいな点があることは否めない。むしろ、「異常」という診断をすることにどのような意味があるのかさえ疑問に思えてくる。本人に診断を告げた場合、それがもとでより他人との関わりに消極的になってしまうことさえ考えられるのではないか。ただし、周囲にいる人々が本人の置かれている状況を理解することは必要である。それは「あの人は異常だから」として敬遠することではなく、本人を受け入れ、専門家の助言のもとですこしでも正常な状態に近づけることを意味するのは言うまでもない。また、教員にできることには限界があるのではないかと思う。たしかに、正常範囲内で問題行動をとる生徒に対しての指導は教員の仕事であるが、一定範囲を超えた場合には教師個人の力量で根治させることは困難である。それはちょうど、素人の民間療法が症状を必ずしも改善させないのと同様であろう。ただし、身体的障害ないし疾病でいうと「看病」にあたるところの、身近な存在として本人を理解し、受け入れることによって症状の改善を図ることは重要であると思われる。”
 更に話は、授業への応用へと移りました。「倫理」という科目のなかに精神障害を題材として取り扱うことの可能性について、まず考察がなされました。取り扱うことの目的として、現代社会の話題を読み解く上で正確な知識を持つこと、例えば、神戸の小学生殺害事件における「行動障害」や、大阪の小学生殺傷事件のアフターケアにおける「外傷後ストレス障害(Post Traumatic Stress Disorder PTSD)」など、また、精神障害の概念の理解と受容、例えば、自己同一性確立期における不安への対策等が挙げられます。取り扱う上での注意点としては、境界の不明確なものを取り扱うことからくる誤解、例えば、正常範囲内の人格的特徴を人格障害として攻撃するなど過度な反応からくる「自分も障害を抱えているのではないか」という不安を持たせる可能性が挙げられました。
 さらに、生徒集団と授業展開についても、提案がなされました。まず、対象となる生徒集団に精神障害者がいる場合、“身体障害者のいる集団に対して身体障害のプロセスを語ることがためらわれるように、あるいはそれ以上に精神障害者のいる集団に対して精神障害のプロセスを語ることには大きな不安がある。たとえそこで題材として取り上げるのをやめたとしても、配慮としての撤退とことなかれ主義的敬遠は明確に区別したい。”そして、対象となる生徒集団に精神障害者がいない場合、
○話題として現代の少年犯罪にともなって一般化した「精神障害」と「精神鑑定」などを提起
○「対人恐怖」など青年期に起こりがちな症例を挙げ、その発症のプロセスを提示
○正常と異常の境界線があいまいであることから精神障害が「誰にでも起こりうるもの」であることに着目
○「障害」ということばがもたらす「異質なもの」としての性質を再考
○ノーマライゼーションの実現についてその方法を考察
という組み立てを想定してみた。あくまで最終的には「障害者の受容と理解・ノーマライゼーション」という観点で取り扱ってみたい。当然のことながら、この題材の前後でどのような題材を取り扱うかについても慎重に検討しなければならない、という点も指摘されました。
《参考文献》
こころの病気がわかる事典(渡辺登,日本実業出版社,1999年,初版)
新版 精神医学辞典(弘文堂,1993年,初版)
imidas2002(集英社)
トゥレット障害による登校拒否例(遠藤弘佳,芝学園,全私研レポート)
トゥレット障害による登校拒否 Part2(遠藤弘佳,芝学園,全私研レポート)
 石塚先生の発表に続いて、質疑応答の時間を設けました。実際に、不登校の多い学校で勤務していらっしゃる先生は、家庭と学校のやり取りが重要である、とおっしゃっていました。今回は芝学園での実践例を報告して貰ったわけですが、芝学園での相談室の利用は20年の歴史があり、生徒のご両親も利用できるということです。ここで、ダリルから一つ質問が出ました。アメリカのほとんどの学校が、ADHD(注意欠陥多動性障害)の子供が毎日投薬を受けるなら、という条件付で、生徒を受け入れているようですが、日本ではどうなのでしょうか。また、障害のある子供にも学習をさせたいという反面、他の生徒に迷惑がかかるというジレンマに、どう対処していけばよいのでしょうか。ADHDの生徒に対する日本の学校の対応については、国公立の学校では、あまり条件をつけられないのではないか、それでも、養護学校などでは投薬を求めるところもあるかもしれないという意見が挙がりました。個人的に、薬に対する抵抗があると述べた先生もいらっしゃいました。ADHDもひとつの個性なのではないか、成長の過程で、対応の仕方を覚えていくことが出来るのではないか、という意見もありました。
 その一方で、ADHDを抱える生徒は、やってはいけないという判断はつくものの、自分では抑えられないという現実もあります。学校行事で例えばプラネタリウムへ集団で行く時など、やはりじっとしていられない生徒が出てきた場合には、参加させないという方法しかないのではないでしょうか。むしろ、皆と同じように、縛りつけておく方が酷で、一緒にやっていくのはその生徒に対しても、他の生徒全般に対しても、マイナスになることが多いと述べる先生もいらっしゃいました。やりたいことをやらせてあげたいという気持ちと、集団を任されているという責任の間で、ジレンマを感じる先生もいらっしゃいます。新聞でも盛んに取り上げられているように、小学校などでは、担任の思うように授業が進まない、など、学級崩壊につながるようなケースも少なくないようです。学校だけではなく、家庭での教育や取り組みにも大きな責任があると思われます。総合的に、親や地域への教育も必要なのではないでしょうか。
 親が協力的ではない場合に、先生や学校が背負うものは大きいと思われます。一人で抱え込んでしまうよりも、県の教育センターにある相談所や、ホームページなどに助けを求めるのも良いのかもしれません。職員にもカウンセリング研修などがあり、担任がカウンセラーとしての態度と、規律を守る立場からの態度との自己矛盾を感じている場合が指摘されました。やるべきだという意識はあっても、なかなか実践に移せないのが現状のようです。そんな中、教師自身の心のケアにも話題が移りました。三分の一の教師が、一度は仕事をやめたいと思ったことがあるらしいのです。例えば学校の相談室を教職員にも利用可能にする、などの対応策が、既に私立の学校などでは実行されているようですが、更なるフォローアップが必要だという認識も挙がりました。 
 この後も、夕食を交えて活発な議論が交わされました。


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