「学校における生命倫理教育ネットワーク」第28回勉強会報告

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ダリル メイサー(責任者、筑波大学 助教授)
〒305 つくば市 筑波大学 生物科学系
生命倫理に関する教育研究グループ
ファックス番号:0298-53-6614


日時:2002年7月27日(日)
場所:私立芝学園
内容:「ゲノム時代の医療と倫理」をテーマに

発表者: 国立精神・神経センター精神保健研究所 室長 白井泰子

 この10年余りの間に、驚くほどの速さで進められてきたヒトゲノム解析研究の過程で、数多くの遺伝子が明らかにされるとともに、新しく見つかった遺伝子の構造や機能、染色体上の位置なども解明されている。こうしたゲノム研究の成果により、遺伝子検査の対象はメンデル型遺伝形式をとる単一遺伝子病だけでなく、高血圧や糖尿病のような一般的疾患にまで広がってきた。また遺伝子診断の目的も、病型診断や出生前診断・保因者診断だけでなく、発症前診断や疾患感受性診断(リスク診断)へと拡大している。このような遺伝子検査の用途の多様化・一般化に伴って、遺伝子診断をめぐる倫理問題が顕在化・拡大化する危険性も大きくなっている。

1. 遺伝子診断と個人の遺伝情報
2. 遺伝子診断・遺伝子検査のもつ種々の意味
3. 遺伝子診断とインフォームド・コンセント原則
4. 遺伝子医療と患者のプライバシー保護


参加者
石塚健大(私立芝学園)
井上兼生(大宮中央高校)
江口一哉(私立芝学園)
大谷いづみ(東京学芸大学付属高等学校
大泉校舎)
岡田祥宏(筑波大学)
加藤美由紀(晃華学園中学高等学校)
栗本学(東京都立調布南高等学校)
斎藤三男(実践生物教育研究会)
白井泰子(国立精神・神経センター
精神保健研究所)
田中裕己(大同工業大学教育課程)
坪井重子(川口市立川口高校)
中村良治(筑波大学)
前川 史(筑波大学)
三浦俊二(埼玉県立草加西高校)
三森紀子(慶応義塾湘南藤沢中等部・高等部)
メイサー・ダリル(筑波大学)

 全員の自己紹介が済んだところで、まず今回は、山下先生、小泉先生、白石先生が参加できない旨を伝えました。続いて、今回の発表者、白井先生にお話をしていただきました。
 白井先生は日本における生命倫理のパイオニア的存在で、現在は国立精神・神経センター精神保健研究所で室長をしていらっしゃいます。ヒトゲノムプロジェクトが進み、遺伝子配列の機能の確定が進んでいます。これにはすでに発症している患者さんの遺伝子を調べるのが一番です。ポストゲノム研究にお金が費やされるようになり、オーダーメイド医療がさかんに取り上げられています。こうしたゲノム研究は、ベンチャー企業には便利なのではないか、と白井先生はお考えでした。その機能が解読されるにつれ、人間ドックならぬ、遺伝子ドックによって、糖尿病など、生活習慣病にまで遺伝子を元にして診断できる疾患が広がるかもしれません。
 さて、それでは、遺伝子が分かれば、人間の命がわかるのでしょうか?また、リスクが高いと診断されることの意味とはなんなのでしょうか?昨今の報道の仕方では、あたかも遺伝子がわかれば全てが分かるかのような錯覚に陥りがちだと、白井先生はおっしゃっています。個人の遺伝情報の特徴として挙げられるのが;
1. 被験者の個人情報であると同時に、血縁者との共通情報である
2. 検査結果は生涯を通じてほとんど変動や変化がない
3. 特定の個人を生物学的に認識するための基本情報
の3点です。個人の遺伝情報は、例えば何らかの事件の、犯人の特定に役立てることができます。疾患には遺伝子因子と環境因子が複雑に関係しており、血友病や筋ジストロフィー等の単一遺伝子疾患は、100%遺伝子因子が関係しており、事故や外傷といった遺伝子の関与が0%のものもあり、その中間にガンや糖尿病、アレルギーや精神疾患など、どれくらい遺伝子因子、または環境因子が関与しているか分からないようなものもあります。この場合、リスクがあるからといって、絶対その病気にかかるかという確証はなく、そのリスクの高いか低いかについても、分かっていない部分が多いそうです。
遺伝子と疾病の関係には、まとめると次の三つのパターンがあります(図1)。
今までは、遺伝子検査といえば小児科などが主な関係場所でしたが、内科や耳鼻科でも遺伝子検査が利用可能になり、当然向き合わなければならない人が一気に増えるという懸念もあります。遺伝子検査の用途は次のようにまとめることができます。
A 対象となる病気に基づく分類
遺伝病の診断
生活習慣病等の診断
感染症の診断(O-157など)
B 検査の目的に基づく分類
確定診断
発症前診断(ハンチントン病など)
出生前診断(以前は染色体や酵素の分析を行っていた)
保因者診断
易罹患性診断(いわゆるリスク診断)
次に、遺伝子検査によって生じる、さまざまな利点や問題をまとめていただきました(図2)。
遺伝子検査によって発生する倫理的問題点に関しては、次のようなことがあげられます。
遺伝情報の性質に由来する問題
個人情報/家族共通情報
インフォームド・コンセント原則
患者のプライヴァシー権
以上のようなことから、疾病概念の変容が起こることは確実です。また、“診断”と“治療”のギャップが、現段階ではどうしても残ってしまいます。さらに、未成年に対する検査は、前にも挙げているように、誰が決めていつ検査を行うのかという問題も残ります。まとめると、次のような点に留意する必要性が出てきます。
「遺伝医療の時代」の疾病予防とその前提条件
患者参加型医療への、パラダイム・シフト
市民・医療者に対する遺伝教育の充実
遺伝子還元主義からの脱却
予防医学と遺伝子診断
基本的人権の尊重
適応基準の明確化
個人の遺伝情報の保護とプライヴァシー権
自由な自己決定を支えるインフラの整備

ここで、白井先生の発表を終了し、10分間の休憩をはさんで、質疑応答、討論の時間に移りました。アメリカのガン学会は、臨床上の有用性をレベル1〜3までで判断しており、それに基づいて遺伝子のデータを用いているようです。つまり、その遺伝子が病気に関連していることと、治療に有効に使えるかは、もちろん別であり、臨床に遺伝子を用いることと基礎研究とでは、やはり大きな違いがあるのようです。遺伝子診断や出生前診断などでは、自分以外の人に影響が出てくるのだ、ということを、改めて実感したというメンバーがいました。知らないままでいる権利や、知らせる義務との葛藤が存在し、genetic harmを防ぐためにも、医者が守秘義務を乗り越えてでも伝えるべきことがあるかもしれない点が指摘されました。国家プロジェクトとしてのゲノム研究では、より多くの人に参加してもらい、資料を提供してほしいと願っているに違いありませんが、人間の尊厳と、人を資源として利用するという二つの側面があり、最大限の利用が果たして良いかどうかについては、疑問が残ります。そんな中、若い人たちが、自分も含めて他者をかけがえのない存在であるととらえる風潮が薄れているのではないか、という懸念がありました。実際高校においても、先進医療に対する抵抗が減っているようだという意見が挙がりました。
モラルや倫理観といったものは、時代が変わったからといって、そんなに変わってはいけないのではないか、基本的なところでの人間の哲学や倫理基盤が重要であり、それがなくなると人間はとんでもない目にあってしまうのではないか、という指摘がありました。さて、そんな中、生命倫理の問題が果たして自分の身に降りかかったときに、同じような捕らえ方ができるかどうか、疑問視する意見が挙げられました。それに対し、白井先生は、リアルタイムではなく、擬似的にでも、いろいろな見方や考え方を状況から教えられた、そのような体験は有意義なのではないかとおっしゃっていました。やはり、日本では大学以上の高等教育の、生命倫理に関する教育のインフラが整っていないという問題点も指摘されました。
最近の科学技術のみならず、技術というものにはすべからく魔力があり、いったん存在してしまうと、「こういう使い方ができるのに、なぜ使わないの?」という、使わないことへの理由付けが声高に叫ばれるようになってしまうのではないでしょうか。
話題は不妊治療やそれに関わる出生前診断に移りました。子供を産むか産まないかは、あくまでも自己決定であり、そのためにはより多くの情報が必要だ、というのが、出生前診断の正当な主張だと思われます。しかし、実際に障害を持った子供が産まれるとわかったときに、その子供を安心して産めるような社会・受け入れ態勢の整った社会になってから、情報を提供するべきなのではないかという主張がありました。日本だけに限ったことではないのかもしれませんが、特に白井先生が感じられたのが、公の場での賛否両論を議論する機会や、報道が少ないということだそうです。また、遺伝情報は個人の情報の最たるものであり、繰り返し心配な点として挙げられるのが、プライヴァシーや匿名性の問題です。これに対しては、アメリカやEUでは被験者の保護法ができているが、日本にはガイドラインや法律といった基盤がまったくできていないという点が指摘されました。
自己決定や自主自律の重要性が叫ばれる中、一人一人の判断に還元していくほど、しょうがないという気持ちになる、とおっしゃった方がいらっしゃいました。それには例えば、援助交際の例があげられましたが、「自分はやらないけど、他人がやっているのをとめる権利はない。しょうがない。」といった高校生の意見が出されました。他人に迷惑をかけなければ、自分の判断と決定であるから、それはどうしようもない、という捕らえ方であると思われます。これに対し、やはり、社会が社会であるためには、枠をはめる必要があり、それなりのルールやモラルを基準にする必要があるのではないかという意見が挙がりました。個人の欲望を公的な場で追及する際の、リミットを設定する必要があります。「出来ること」が、必ずしもすべて「していいこと」にはつながらないのです。自分を大切に思うことと同じくらいに、他人を大切に思うことは、もちろん大事なことだと多くの人が納得するところでしょう。そのいっぽうで、自分の大事さというのは、自分に大切な人が出来て初めてわかることなのかもしれません。
最後に、白井先生からお勧めの本を二冊紹介していただきました。1冊目はジャンーフランソワ・マティ著、築地書館の「人工生殖の中の子供たち 生命倫理と生殖技術」、2冊目はリー・M・シルヴァー著、翔泳社の「複製されるヒト」です。
 次回の勉強会の日取りと、発表者を決めて、議論は夕飯の席に持ち越されました。



図1:遺伝子と疾病の関係
1.遺伝子a → 疾病A (一つの遺伝子が一つの疾患を引き起こす場合)

2.遺伝子b
  遺伝子c → 疾病W (複数の遺伝子が一つの疾患を引き起こす場合)
  遺伝子d

疾病X
3.遺伝子e 疾病Y (一つの遺伝子が複数の疾患を引き起こす場合)
疾病Z

図2:遺伝子検査によって生じる様々な利益と問題点
遺伝子検査によって生じる医療上の利益と不利益
利益 不利益
早期からの予防的・治療的介入 無効、もしくは有害な予防的・治療的介入
サーベイランスの可能性が増加 (例えば子供の場合など)
予後を改善できる
診断を明確化できる

遺伝子検査によって生じる心理・社会的問題
利益 不利益
不確実性を減らす 自己イメージが変化
(不確実さから来る)不安を解消 子供に対する親の見方が歪む
心理的適応の機会が与えられる 不安・罪悪感が増加
教育・就労・保険・対人関係の、現実 教育・就労・保険・対人関係の時期が変化
的な計画がたてられる 晩発性疾患を持つ家系内の他のメンバーを
遺伝的リスクを家系内のメンバーに報告 固定することにつながる
できる 遺伝子差別
父子関係の不存在が発覚

遺伝子検査によって生じる生殖に関する問題
利益 不利益
遺伝子疾患を持つ子供の出産を回避できる 生殖の決断が他者に左右される
遺伝子疾患を持つ子供の出産に準備できる
家族計画ができる


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