「学校における生命倫理教育ネットワーク」第30回勉強会報告

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ダリル メイサー(責任者、筑波大学 助教授)
〒305 つくば市 筑波大学 生物科学系
生命倫理に関する教育研究グループ
ファックス番号:0298-53-6614


日時:2002年12月7日 
場所:私立芝学園
内容:「健康分布の測定」をテーマに

発表者: アメリカ、ウイスコンシン大学マデイソン校公衆衛生学部 浅田由紀子(博士号候補者)

要旨
生命倫理学は医者と患者の関係など個人レベルでの倫理問題に主に注目し発展してき た。しかしながら、医療における倫理問題は、個人レベルにとどまらず、医療資源の 配分、疫学研究データの利用、管理など集団レベルでも重要である。今回の発表で は、集団レベルでの医療における倫理問題の一例として、健康分布の測定について取 り上げる。まず、"Population Health" の概念、測定について説明し、その後、報告 者の行った日本のデータ分析を例にとりながら、健康の分布とその測定について紹介 する。

参加者
浅田由紀子(ウィスコンシン大学)
石塚健大(私立芝学園)
井上兼生(大宮中央高校)
江口一哉(私立芝学園)
岡田祥宏(筑波大学)
斎藤三男(実践生物教育研究会)
白石直樹(東京都立足立新田高等学校)
橘 都(羽田高校)
前川 史(筑波大学)
村田聡美(筑波大学/私立芝学園)
メイサー・ダリル(筑波大学)
山下 亨(東京都立東村山高等学校)

 まず、田中先生、栗本先生、加藤先生が都合により参加できない旨をお知らせしました。今回はネットワークの設立率メンバーの一人でもある、浅田由紀子さんが、博士論文で取り上げているテーマ、「ポピュレーションヘルス(公衆衛生)の不平等」について発表をしてくださいました。現在浅田さんはアメリカのウィスコンシン大学に在籍しており、ポピュレーションヘルスを専門に研究を続けていらっしゃいます。
ポピュレーションヘルス、という言葉は、正確な訳語が存在しないことからも、日本ではなじみの薄い分野ですが、大まかに言うと、ある集団がどれだけ健康か、という点に注目するものだそうです。ヘルスケアサービスの利用や制度、医療資源の分配、ダウン症のスクリーニングや、内耳移植といった分野も含まれます。国民保険制度が取り入れられている日本に比べて、アメリカでは保険への加入は個人に任されています。そのため、貧しくて十分な医療を受けられない人たちがいる、すなわち健康の不平等が問題となっていることは有名な話です。
 生命倫理は伝統的に、例えば医者と患者の関係や、生死にまつわる各個人の意思決定という具合に、個人レベルで検討されるのが常でした。しかし、国家政策など、集団レベルでも倫理的問題が多く存在することは無視できません。これまでの調査から、どの国においても、所得(社会的地位)が低いほど不健康である、ということが証明されています。さて、それでは日本における健康の分布はどうなっているのでしょうか。一家庭の収入が$10,000ドル減少するごとに、介護を必要とする老人が1.69倍増えるということが分かっています(近藤2000)。また、県ごとの小児死亡率の差が減少したのに対し、日本全体としての死亡率は上昇したことがわかっています(長谷川2001)。ある集団がどれだけ健康であるかを調べる際に、従来の方法では平均値だけに頼ってきました。しかし、平均値だけではあらわしきれない部分もあり、たとえば平均寿命に加えて、偏差や分布も調べる必要があると思われます。そこで今回紹介されたのが、健康度に限定したクオリティー・オブ・ライフの測定です。この方法を用いて、1989年から1998年までの日本の健康の推移を調べたところ、男女ともに平均寿命は延びていましたが、クオリティー・オブ・ライフは微小ではありますが、減少していることがわかりました。さらに、男性よりも女性において、また、若い人よりもお年よりのほうが、クオリティー・オブ・ライフの不公平な分布が見られました。このことから、平均寿命の伸びは必ずしもクオリティー・オブ・ライフと一致しないことが明らかになりました。また、日本における健康度の平均的な上昇は、健康の不公平さの減少とは一致しないことが明らかになりました。
 ここまで、健康の不公平さに着目してきましたが、このことが倫理的に重要であるならば、測定や表し方にも倫理的考慮の必要があると思われます。健康の不公平さを測定するための枠組みは、倫理的な面からもまだまだ展開する必要があるのです。哲学の見解からしても、近年、健康は社会的に良いことであり、公平さや平等性が健康の分野にまで及んでいます。また、WHOが2000年に“World Health Organization Health Inequality Measurement(世界保健機構、健康の不公平さの評価)モを発表していることや、健康の不公平さの何を、どのように測定するかの討論も進んでいることから、関心が高まっている良い時期であると考えていいでしょう。
 今回の研究では、まず、理論的・分析的枠組み(ガイドブックのようなもの)を作成し、次いでその枠組みが量的研究においてどのように使用できるかを示していきます。
 最初に、健康の不公平さを測定するために必要な三つの段階を紹介します。第一段階は理論的なことで、健康のばらつきがどこから不公平になるかの考察、第二段階は実際の健康度の測定、時間の単位や分析の単位の決定、そして第三段階は抽出した情報をひとつの数字に要約する作業です。ここで問題となってくるのが、健康の不公平さをあらわす指標を、どのようにして選択するか、ということです。統計的分析方法はいくつもあります。これまでは、その中から利便性に応じて係数や指標を選択してきました。しかし、指標が違えば、導き出される結論も違ったものになってきます。「不公平さ」はそれ自体とても複雑な概念です。現存する指標はそれぞれ、その不公平さのうち、特定の部分を捉えているに過ぎません。ですから、指標を選択する際には、規範的判断(倫理的・道徳的考慮、政策との関連性、疫学的・経済学的知識)が必要となってくるのです。
 次に予定しているのは、この枠組みを用いての経験的分析ですが、こちらは来年の5月までをめどに、これから進めていく部分です。
発表に引き続き、質疑応答の時間を取りました。まず、各個人の健康度を表す際に、どのような人であっても0−1の指標で表せるのか、という質問に対しては、もちろん0−20という幅を用いてもよいが、結局は特定のルールを定めて、その中で例えば風邪を引いたら何ポイント、入院したら何ポイント、というような点数を決めていくとの答えでした。同様に、例えば生まれつき目が見えないが、その他はいたって健康な子供がいたとして、そのような数値はどうやって決まるのか、という質問が上がりました。指標を設定する際には、いくつか世界的に認知されている方式があり、それにのっとって進められ、理想的にいえば、調査を行う集団を反映した割合で、例えば盲・聾・身体的に不自由な人などの意見も取り入れる、ということでした。これに対して、人間には適応能力があり、生まれながらにして盲であるのと、大人になってから視力を失うのとでは、随分不自由度にも違いが出てくるのではないか、また、適応度についても、適応する前に意見を聞くのか、適応したあとに聞くのかでも違いが出てくるのではないか、という指摘がありました。これについては、今までは指標とされていたのが平均寿命や死亡率、といった明確な部分だけだったのに対し、やはり生きている間の「健康の質」という点も考慮に入れた指標を作るべきだという答えでした。「質」というものを数値化する際に、倫理的な絡みが出てくるのが面白いところだ、という意見もありました。
さらに、インドの貧民街で生活する子供と、ヨーロッパの裕福な家庭で生活する子供と、同じ指標で表すのか、という質問に対しては、結局問題としているのはあくまでも健康度であって、貧富の差は現われないが、結果的に貧しい環境で育っている子供のほうが、健康度は低くなるのではないか、という答えでした。これらの指標を作る際に、調査集団に対していくつもの意見調査を行うのですが、文化や国によって例えば「健康」の捉え方が違ってくる、という指摘はありました。実際にオーストラリアのアボリジニに対して、「自分は現在健康であるか?」という問いを投げかけたところ、「いたって健康である」と答えるアボリジニの人がいたとしても、オーストラリア全体からみたときに、アボリジニの人たちの健康状態が必ずしも最高ではない、という例をあげて、すべての調査対象に同じ指標を使ってもよいのか、という疑問は残るようです。また、同じ個人を表すにしても、異なる価値観、例えば幸せの度合いであるとか、社会への貢献度であるとか、によっては、異なる図が書けるのではないか、そういった点は考慮されているのか、という問いに対しては、現段階では、ある程度客観的に測定できる「健康度」だけに焦点を絞っているということでした。この健康にはメンタルヘルスも含まれるということで、もちろん判断が難しい部分ではあるが、世界的に用いられているものを参考にしている、ということでした。
今回の浅田さんの研究では、ガイドブックのようなものを作成する、という目的がありましたが、それが使用される想定先はどこであるか、という質問に対しては、健康の分布を調べよう、統計的な調査をしてみよう、と考えている研究者に、まず、倫理的な問題や側面があり、ガイドブックに従って調査を進めることで、考慮するべき点が明確になればよい、という答えでした。
10分間の休憩をはさんで、さらに討論を続けました。
前半の質疑応答でも問題になっていましたが、やはり「健康」というものを量る際に、生活水準や環境は考慮に入れてほしい、という意見が挙がりました。適応度や可動度は、例えば電動車椅子を買えるか、教育を受けられるか、といった環境的要因に左右され易いものです。指標を決める際には、可動度に関する項目もあるが、なかなかあいまいな部分でもあるようです。というのも、例えば老人の可動域を広げたい、といった場合に、国が政策として移動手段をすべて保障するという方法もあれば、各個人の身体能力を上げて、元気でいてもらう、という方法もあり、どこを基準にするかなどで、問題が浮かび上がってくるからだそうです。
ノーベル賞をとった人に、潜在的可能性(Capability approach)について述べている人がいたと思いますが、関連性はあるのか、という質問に対して、浅田さんはまず、理論として健康の不公正・不公平が生じるのはどこか、また、「健康」を人間の基礎資源として捉えるべきか否か、といった点に着目されました。最低レベルの健康度を設け、そこに到達するまでは国が面倒をみるべきではないか、といった意見も述べられましたが、結局どうしたって最低レベルにさえ到達できないような人たちが出てきてしまので、そういう場合にはどうすれば良いのか、という疑問が残ります。また、最低レベルの健康とは、どれくらいなのか、という点についても、議論の余地があります。
ここまでの議論から、学校でテストを作成するときに似ている、というコメントが寄せられました。なるべく平均点を上げつつも、標準偏差が少ないものが理想的なテストとされていますが、国の保健政策にしても、例えば平均寿命を引き上げつつ、ばらつきをなるべく少なくする、というのが理想的な形なのではないか、というものでした。また、やはり「健康」を定義しなおさなくてはいけないのではないか、という意見も挙がりました。もちろん、客観的に健康である、と測定することも重要だけれど、やはり主観的に自分が健康である自覚するということも大事なのではないか、という意見もありました。心身ともに充実している状態が理想的ですが、健康の分布を調べる際に、不公平・不公正な部分をどう減らしていくか等、社会的にどのように還元できるかは、これからの課題でもあるということでした。「健康の定義」については、これまでも多くの議論が繰り返されており、最終的な結論に到達するのが不可能にも思える分野だそうです。それでも、そこで止まってしまっていては、先に進めない、ということから、大まかな部分で同意の得られている暫定的定義で、今回の浅田さんの研究でも「健康度」を捉えているようです。
国連でも人間開発指数といったものをUNDPが示していますが、これは生活全体の質を表したもので、長所としてシンプルでわかり易く、加盟国が納得しやすかったという点がありますが、短所としては、指標の設定が大雑把であったという点を指摘されました。これに対し、各国の保健システムがどれくらい機能しているか、より綿密な形でWHOも指標を表明していますが、これはなかなかに複雑な概念と計算を用いているため、不透明さや理解のしにくさから、あまり受け入れられなかったという例も挙がりました。
この他にも、生物学的な意味での健康と社会的な意味での健康についてや、国によって健康の中での比重が違うこと、社会的な影響を考慮したときの健康についても意見が交わされました。心を脳に還元できるようになれば、もっと数値化が進むのかもしれない、といった意見も挙がりました。
活発な意見交換の後で、2003年〜2004年にわたっての生命倫理教育プロジェクトと、第8回つくば国際生命倫理円卓会議についてのお知らせがありました。このプロジェクトについては、編集室からのお知らせの欄で詳しく説明したいと思います。
(紙面の読みやすさを考慮して、発表内容を一部一人称で記載していますが、ここに記した内容の権利は全て発表者にあります。転用・転載には各発表者の承諾を得てください。)


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