ダリル メイサー (Darryl Macer)
(〒305 つくば市 筑波大学 生物科学系 / ユウバイオス倫理研究会代表)
メイサー ダリル,「国際生命倫理の将来」, pp. 310-312 in 藤木典夫 & ダリル メイサー,編,神経難病,ヒト・ゲノム研究と社会 (ユウバイオス倫理研究会 1994).
私たちは「情報に基づく選択」とインフォームド・コンセント(情報に基づく同意)を区別すべきです。医師が患者の上に立つ状況では,コンセンントとは同意を意味しています。概念としてのインフォームド・コンセントは,日本で受け入れられつつあり,実行されつつあります。ここ2, 3年重要な変化が見られ,特にメディア,テレビ討論,雑誌,新聞に見られる社会意識の高まりがそうです。「情報に基づく選択」はこの変化を継続させると思われます。「情報に基づく選択」の考えに暗示されるのは,患者が医師の上にあるという関係です。多くの国の医師はショックを受けるでしょうが,患者の権利の社会的変化は,この関係をさらに押し進めると思われます。NHK の五十嵐さんに代表されるように,メディアは重要な部分です。おそらく日本のメディアの現状での問題は,これは他の国でも同様ですが,医学における情報に基づく選択を行使する人や,障害者の前向きなロールモデルを登場させるドラマ番組がないことでしょう。難治性神経疾患がこれほど多くの人々の生活を左右していることを考えると,またドラマがドキュメンタリーよりも人気があることを考えると,日本で最近見られる非常にバランスのとれた素晴しいドキュメンタリーでも人気はドラマに劣っているのですから,これは探るべき重要な領域でしょう。
今日のお話しは,私たちの哲学的思想を見直すデータを提供してくれます。私たちは自分たちの考えを発展させ,様々な分野のデータを使うべきです。自分の専門分野に限るべきではありません。事実,今回のセミナーでは,複数の専門を持つ方々を多数お招きしましたし,ほとんどの方々はご自身の分野を特定の専門に限っていません。哲学の博士号はあらゆる学術分野に与えられるべきでしょう。すべては哲学なのですから。またすべては科学なのです。自然科学であり,社会科学です。しかし生命倫理は,単なる学術分野ではありません。実際,単なる学術分野なら,それはもはや生命倫理ではなく,森岡先生がおっしゃるように,応用哲学です。生命倫理の討論は,学術の世界に中心を置くのではなく,むしろ一般の人々から行われて来るべきものです。ヒトゲノム計画のフレーズを使えば,「ボトムアップ」のアプローチであって,「トップダウン」のアプローチであってはならないのです。アメリカの生命倫理の動きはいくつものルーツを持っていますが,医療と環境政策の考えを変えるスピードは,明らかに市民と政治の権利の草の根の動きに左右されます。
国際生命倫理の発言権は誰にあるのしょう。一般市民の声だけでなく,国際的な討議も必要です。現在のところ,いくつかのグループの善意はあっても,異なる国際的生命倫理団体の活動をまとめるためには問題があります。国際生命倫理学会,国際科学・法律・倫理協会,ユネスコ国際生命倫理委員会,HUGOのELSI部会,WHO,CIOMS,また欧州会議のような地域的組織などは,その活動をもっとまとめられるはずです。例えば国際生命倫理学会,ユバイオス倫理研究会のニュースレターネットワークなど,様々なネットワークが設立されています。私たちは情報を分かつ方法と,思考の国際化を発展させる必要があります。
私たちは世界中の人々の視点を含めた生命倫理を構築しなければなりません。アメリカ合衆国だけでなく(アメリカ合衆国はアメリカの一国に過ぎないのですから,私たちはアメリカ合衆国をアメリカと呼ぶべきではないのです),ヨーロッパもまた非常に多様な地域なのです。しかし,西洋的生命倫理の基盤についての坂本先生の論議には,哲学的,宗教的伝統,特に科学や生命倫理的理論の背後にあるキリスト教的思想が見落とされています。公衆の健康についての責任に関する討議は今世紀に始まったことではなく,すでに何世紀もの歴史があります。動物保護運動は少なくとも百年前に始められ,平等権という概念はヒューマニズムの発生よりもずっと古い起源を持ちます。特にアジア的なものとして,調和などの概念についても触れられましたが,これは現在の,そして過去における西洋的思考の中にも見られます。すべての生物との調和というアッシジの聖フランシスの考えはその一例です。国際生命倫理調査では,森岡先生が「いのち」に対するイメージについて行った先の調査研究を拡張し,「いのち」や「自然」に対して持つイメージを自由に表現してもらいました。各国から寄せられた回答は多くの類似性を示し,それぞれの国において同様の多様性があることもわかりました。Bioethics for the People by the Peopleとして英語で刊行されることになった調査に見られる自由に表明された意見は,討議のデータを提供してくれます。
生命倫理では独自の解釈によるデータに限らず,真の状況を理解するために役立つような他のどんなデータをも探して用いるべきです。学者は時として抽象的に考えますが,私たちは地についた考え方をし,現実を見つめなければなりません。調査や観察で得られたデータは,異なる国の個々の人々が,その論理において根本的類似性を持っていることを示しました。これは社会制度の多様性や生命倫理に対する法という,さらに大きな多様性とは関係なしにです。私はこれを世界的な生命倫理アプローチと呼びました。これは坂本先生がされたようなアジアの生命倫理へと,生命倫理を地域分割する方法とは違うやり方です。勿論,アジアはキリスト教,ユダヤ教,イスラム教,仏教,ヒンズー教,中国,韓国,タイ,そして日本などの視点を含むのですが。しかし現実的な方法としてはこの二つの道に大きな違いはないのです。世界的なものであれ地域的なものであれ,望まれるのは文化を理解することであり,様々な人が行う生命倫理への貢献を正当なものとして認めることです。実際,この貢献なしには適切な生命倫理を発展させることはできません。ヨーロッパにおいてさえも自主性に対しては様々な議論があります。ヨーロッパでは連帯により重きをおいています。アメリカ合衆国でさえ,人々に対する自分たちの義務を認める方向へと変換がなされています。調和と自然はすべての文化で望まれますが,今世紀,私たちは力を乱用してきました。戦争以外にもです。
米国で「少数民族」という言葉を耳にすると悲しく思います。これは黒人,ラテンアメリカ人,アジア系アメリカ人を指していますが,ご承知のように,これらの人達は世界的には「少数民族」ではありません。少数なのは白人です。「少数」という言葉は政治的,生命倫理的な響を持ち,もちろん,過半数と異なる意見を残すためには必要です。しかし,彼等を少数民族と考えることは,時にはアメリカ合衆国的とも言われる,自分たちの生命倫理こそ世界的なものと考える国家主義的な視点につながるでしょう。これは世界が米国の生命倫理討議から多くを学べないということではありません。米国における政策は,西見先生の発表の主題で,これは本書の「集団遺伝テストの社会的需要と問題点」に掲載してありますが,本来はこのセッションのためのものでした。先生はOTAの代表ですが,これは生命倫理に関する多くの情報を含む報告を行い,米国における全国規模の生命倫理委員会がないために空白となった部分を埋める試みを行っています。
私たちは多くの国の人々に考えを聞き,彼等の宗教的,文化的歴史を見,彼等がどのように生活しているかを見なければなりません。これはテレビではできません。私たちは違う国を訪れ,住む必要があります。セミナーでは得られない経験です。このセミナーの前の週に,私たちのうちの約12人がつくば円卓会議に集まりました。これは様々な視点に関する討議を行う機会となり,このセミナーに参加するための有益な準備となりました。人々の代表的考えを掴む一つの方法は世論調査を使うことです。今朝のセッションで,私たちは様々な国の意見を検討しました。発表された異なる世論調査の有益性を考慮しなくてはなりません。かなり大きな研究グループの代表者による発表でしたが,ヴァーマ先生,平山先生,姜先生,李先生,羅先生,ラタナクール先生,コーシック先生,そして私自身の調査結果を検討しました。また,レヴィット先生は,伝統的な宗教思想や哲学の重要性と,倫理問題に取り組む際それらがどのように影響するか,そして私たちがどのように考えを得るかを話してくださいました。遺伝学における多くの問題はそれ自体それほど新しいものではなく,歴史の中にも見られ,これを新しい状況に応用することもできます。
ヴァーマ先生から,「宗教はおそらく時代とともに変わるべきである。」というコメントをいただきましたが,「宗教の適用は時代とともに変わるべきである。」とした方が良いかもしれません。事実,宗教の歴史の中には根本主義が主導権を握った時もあれば,寛容やより深い理解のあった時代もあります。私たちは後者の方を望みますが。また,専門家の意識も検討しましたが,これについては,羅先生,特に,クラーク先生,白井先生,そして大沢先生が触れられました。医療のジレンマという実際の経験が私たちの経験をどのように形成するかを強調されましたが,これは素朴な世論より重要なのかもしれません。教育されてしまえば世論はそれほど「素朴なもの」ではありません。いくつかの質問では,一般の市民は生活の中ですでにジレンマに気付いていると感じました。ボダーサ先生は教育に焦点を当てられましたが,学生への影響についてはまだわからないことが多く,究明が必要です。私も日本とオーストラレーシアにおける生命倫理教育について調べていますが,すでに多くの先生方が生物の授業で生命倫理を取り上げておられることがわかっています。しかし,先生方の生命倫理についての理解も様々だと思います。
国際生命倫理の探究は,このセミナーで少し文化を超えた生命倫理の方向に近づけたかもしれませんが,何よりもまず,私たちは謙虚でなければなりません。そして,自分の考えを述べると同時に,他の人の考えも配慮しなくてはなりません。古い預言者の言葉にある「耳あるものは聞くがよい。」,これが様々な文化にわたる国際生命倫理なのです。