ロシアにおける生命倫理のジレンマに対する一般意識

V. コーシック, メイサー ダリル,
(VK - Academy of Sciences, Moscow, Russia; DM - 〒305 つくば市 筑波大学 生物科学系)

 V. コーシック, メイサー ダリル,「 ロシアにおける生命倫理のジレンマに対する一般意識」, pp. 218-221 in 藤木典夫 & ダリル メイサー,編,神経難病,ヒト・ゲノム研究と社会 (ユウバイオス倫理研究会 1994).


 この論文では, D.メイサーの協力を得て,V.コーシックによりロシアで行われた国際生命倫理調査の結果を何点か検討する。調査の概要と標本については,本書,前出の論文(メイサー&加藤p.204)の通りである。この調査の主な目的は,ロシアにおける生命倫理のジレンマに対する意識を研究することである。

 ロシアは過去2,3年間,世界の注目の的であり,特に,ここ数年のペレストロイカとグラスノスチの時期はそうである。ロシアの帝政期,社会主義革命,現在の分裂は世界の出来事を大きく左右した。今,ロシアは分岐点にあるといっても過言ではないだろう。中央集権の国営経済から,市場経済への移行はロシア人の生活のあらゆる面に影響した。このため,今日では,ロシアの一般市民は,医療や生命医学研究を含む生活のすべての領域において,広範なジレンマに直面している。

 生命医学技術の分野や,ヒトゲノム計画における最近の進歩は,人体実験,再生技術の遺伝学や技術,遺伝情報の所有や支配,そして,カウンセリング技術などの問題の論議を生んだ。生命の質を高める驚くべき可能性が生じた一方,倫理的抑圧を含む遺伝子技術の危険性についての深刻な問題も表面化した。遺伝子スクリーニング,遺伝子治療,精神病患者やエイズ感染者に対する偏見,権威者に対する信頼,プライバシーの権利などの問題に対する一般市民の意識を調査した。これらの問題はセミナーの主題と関連しているため取り上げた。調査の完全結果はBioethics for the People by the People で報告する。

 ロシアにおける生命倫理調査は,1993年4月に三つの地域で行われた。モスクワ(500),ペテロザボスク(250),ウファ(250)で,返信用封筒と共にアンケートが手で配られた。一般市民には,約500点のギフト セット(消しゴム,鉛筆,鉛筆削り)を配布した。アンケートは,A4片面のもの7枚を綴じ,1ページ目に紹介文を載せた。性別,年齢,配偶者の有無,子供の数,職業,学歴,収入,居住地域に関する総合的な統計情報は本書,前出の論文の通りである。

 政府の助成による出生前遺伝子スクリーニングの支持は92%と高く,回答者の80%が妊娠中に受けたい,あるいは妻に受けさせたいとしている。87%が先天性異常の4か月の胎児の中絶を支持し,4ヵ月の胎児全体に対しては43%しか認めなかった。調査を行ったすべての国のデータ表は本書(p.114-5)のメイサーの論文で示す。ところがロシアでは,実際に人工中絶の行われる件数は非常に高く,43%支持というのは予想したよりも少し低い数値だった。

 遺伝子治療に関する質問では,47%が一般に致命的な遺伝疾患の遺伝子を治すためには個人的に治療を受けたいとし,19%は治療を希望しないと答えた。59%が,子供がそのような疾患を持っている場合の治療に賛成し,11%は治療を受けさせたくないと答えた。その理由として挙げられたことは,他の国々とほぼ同じだった(前出の論文,表9,p.217参照)。特定の例を挙げると(問28)支持率はさらに高く,癌などの致命的な疾患の治療法としては83%が賛成,9%が反対だった。子供が受け継いだ遺伝子を治すことに対しては支持はあったが,他の国では,改善のための方法としては拒否反応があった(メイサー,表5, p.116参照)。

 70%以上は遺伝や神経疾患を有する人には,前出の論文が示すように(メイサー&加藤,p. 214表3,4)親近感を感じている。疾患に対するそのような親近感が,そのための出生前スクリーニングへの肯定的な意見の理由だろう。同じことが,優生学的理由にも当てはまる。24%が出生前スクリーニングは遺伝子の改良によい方法だとした。この質問に答えた人(肯定,否定的に)の全体の10分の1以上が「遺伝子スクリーニングは遺伝子を改善する」という理由を述べ,これは他のどの調査国よりも高い比率だった。ロシアでは,遺伝子スクリーニングを認めない理由として,優生学に対する不安を挙げた人が一番少なかった(p.115)。

 ロシアでは,他の調査では用いなかった疾患に関する別の質問も行った。かかっている人を知っている精神病の中で,最も一般的だったのは分裂症で(そのうち49%は病名を挙げ,これは全体の回答者の9分の1に当たる),次はてんかん(13%),そして,アルコール依存(12%)だった。鬱病というのはあまりなかったが,それは最初の3つがロシアではアンケート用紙に例としてあげられていたという理由にもよる(メイサー&加藤,p.214表3,4)。これらの病気にかかっている人に対してどう思うかも尋ねた。国際調査を行ったすべての国の分裂病に対する結果を表1に示す(1)。てんかんの患者についても尋ねたが,65%が同情,7%はかわいそう,5%は不安,そして4%は拒否反応を示した。著しい対照は,アルコール依存で,52%が拒否,わずかに18%が同情を示した。アルコール依存はロシアで大きな問題となっているため,アンケートに含めた。最も一般的な遺伝病としてあげられたのは血友病で(病名を記入した回答者のうち14%),病名を記入した回答者の13%がダウン症の人を知っていると答えた。精神病を持つ人に対するのと同様,ほとんどの回答者が血友病の患者に対し,同情,かわいそうという気持ちを表わした(表2)。

 エイズ感染者に対する人々の感情を表3に示す。ロシアの回答者は,実際,他の調査国の人々よりも同情を示しているようだ。ロシア人の大半は,将来エイズの発生率が上がると見ている。ほとんど(96%)の人は配偶者や近親者にエイズ感染を打ち明けることに賛成である。一方,わずか,24%が雇用主に,37%が保険会社に打ち明けることを支持しているだけである(メイサーp.113)。図1に示すように,回答者はエイズに感染した友人や配偶者に対し,拒否感という強い感情を抱いている。わずか45%が,感染前と同じように接するとしているにすぎない。似たような質問では,わずか25%のカップルが感染前と同じように配偶者に接すると答え,14%が同じ家で別々に暮らす,7%が離婚する,38%はわからないと答えた。何人かの回答者は,「自殺に手を貸す」,「相手を殺す」とさえ答えたが,大半は「感染の理由による」とした。ロシア人の91%は治療薬やエイズ治療法に特許を与えることに賛成だったが,ヒトから抽出した遺伝物質への特許を認めたのは45%にすぎなかった。

 興味深い結果は,例えば新薬などのバイオテクノロジー製品の安全性について発言する権威者に対する人々の信頼感である。表4は,専門家や専門集団に対する信頼を調べた結果である。ロシアでは政府に対する低い信頼にもかかわらず,医師に対しては高い信頼を置いている。医師があまり信頼されていない日本と比べると結果は注目に値する。日本人は実際,誰もあまり信頼していないという結果が出たが,他の調査国と比べて,医師と大学教授が,特に医学生によって不信感を持たれているというのが大きな違いだった。一方,ロシアでは医師は信頼され,大学教授や環境保護団体にも高い信頼が置かれている。また,政府を信頼すると答えた人が大勢いた国は一つもなかった。

 70年の共産主義支配は,生命と健康の根本的な問題に対するロシア人の意識に,彼等が社会主義的医療を支持するということを除いては,影響を与えていないようだ。人々が宗教的,個人的信念を表明するのは今日では当り前になった。一般市民の意見へのロシア正教の影響の増加をどこでも目にするが,アンケートの回答には宗教的影響はあまり見られなかった。ロシアの一般市民は,現在の生命倫理のジレンマをよく認識しており,これは遺伝子スクリーニングと治療での問題に対する合理的で理性的な意思を反映していると,結論として言えるだろう。

 これは私たちが知る限り,ロシアの人々に対して行われた生命倫理の問題に関する最初の本格的な調査であり,結果は人々の興味深い意識を明らかにした。調査の完全結果,コメントの例,これらの結果に含まれた意味に関する討論は,参考文献1に見られる通りである。この調査は,ユウバイオス倫理研究会の助成を受けて行われた。

参考文献
1. Macer, D.R.J. Bioethics for the People by the People (Christchurch, N.Z.: Eubios Ethics Institute 1994).


図1:もし,あなたの配偶者がエイズに感染したらどうしますか?もし,あなたの友達がエイズに感染したらどうしますか?

表1:精神病にかかっている人,又は精神病歴がある人を知っていますか。分裂病

表2:次のような遺伝病を持っている人に対してどう思いますか。血友病

血友病の「恐怖, 危険」は,概して患者本人が怪我をすることを指す。

表3:エイズ患者,あるいは感染者に対してどう思いますか。

表4:権威者への信頼
次のようなグループが,バイオテクノロジーを利用して作った物について,その利益や危険性について発表をしたとします。あなたはそれをどのくらい信用しますか。 + 大いに信用する = 信用する - 信用しない


Email < Macer@biol.tsukuba.ac.jp >.
On the Eubios Ethics Institute (English)
ユウバイオス倫理研究会